キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

エレミヤ書聖書講解文 第一回「預言者の召命」

エレミヤの時代

神さまは、「万物を創造し、保ち、完成」させるお方であり、また霊なるお方ですから、時間や空間に左右されず、あらゆることを思いのままにおできになられます。神さまは、「人」をご自分の愛の中に招くため、創造されました。この「人」は、霊の体として創造されたのではなく、時間と空間を肉体において生き、その肉体の中に霊の体を持つよう造られました。

「霊のお方」と「肉の人」が交わりを持とうとするとき、そこにはさまざまな制約がでてきます。神を肉の目で見ることは叶わず、声を音声として聞くことも難しく、また神さまと人は、その存在する次元が異なるため、人同士が顔を付き合わせるように、相手の意思を確認することもできません。

ですから、神さまはご自分の意思を人に伝えるため、ある特定の人を「預言者」として立てられてきました。時を支配される神さまは、その時代に必要な人をあらかじめ選び、時至りご自分の意思を伝える器としてお立てになってきました。

この時代は、出エジプト以降のユダにおいて、最も困難な時代となりました。世界は、アッシリア、エジプト、バビロン、メディアの時代へと突入し、互いに覇権争いに明け暮れていました。列強の狭間に位置する小さな国ユダにおいては、大国のわずかな動きの余波も大きな波となり、国の存亡にかかわる影響を受けざるをえない立場にありました。

神さまがエレミヤを選んだのは、この時代にエレミヤを必要とされたからであり、これから起こるバビロン捕囚により、ユダのみならず全世界に神さまご自身のメッセージを伝えるべく働かれました。

時代概要(BC922年~BC586年)

922年…ダビデ王国の分裂
(ユダと北イスラエルに分裂)
722年…北イスラエルアッシリアに滅ぼされる
(650年頃までアッシリア全盛時代)
640年…ヨシヤ、王に即位
(アッシリアが、バビロンとメディアの攻撃を受け急速に勢力を落とす)
627年…エレミヤ召命
(ヨシヤ王の治世13年目)
622年…ヨシヤ改革
(神殿より巻き物を発見し、偶像礼拝を止めさせる)
612年…アッシリアのニネベ、バビロン連合軍に破れる
609年…ヨシヤ王戦死
(ユダ軍、アッシリアの援軍エジプトの前に立ちはだかり、エジプト王ネコに敗れる、これによりユダはエジプトの支配下に入る)
605年…カルケミシュの戦い
(バビロンにエジプトが敗れ、世界は新興バビロン帝国に制覇され、ユダもバビロンの支配下に入る)
598年…第一次捕囚、ヨヤキン王、ユダ数万人と共にバビロンへと連行される
(ゼデキヤ、王に即位、バビロン服従の約3年後、反旗を翻しエジプトに同盟を求める)
586年…第二次捕囚
(多数の戦死者を出し、ゼデキヤ王と共に多くの市民がバビロンに連れ去られる)

エレミヤが預言者として活動した年月は、「第二次バビロン捕囚までだ」との記述から、約40数年間と考えられます。彼は激動の時代のただ中に生き、神さまが選ばれたユダの歴史を注視し、神さまからの指針を伝え続けました。

エレミヤ書1章4~19節

  • 主の言葉がわたしに臨んだ。
  • 「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生れる前にわたしはあなたを聖別し諸国民の預言者として立てた。」
  • わたしは言った。「ああ、主なる神よわたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」
  • しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れる。 
  • 彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。
  • 主は手を伸ばして、わたしの口に触れ主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。
  • 見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊しあるいは建て、植えるために。」

エレミヤとエレミヤ書

エレミヤは、エルサレムの北4~5kmにあるアナトトという小さな村で誕生しました。そして、その村の祭司を父とし、伯父の妻はフルダという女預言者でした。彼女は、ヨシヤ王が神殿で巻き物(聖書)を発見した際、自分たちの今後を尋ねさせた預言者、その人でした(列王記下22章14節)。彼の後の人生において、彼の親族から理解者が多数出ていることから、エレミヤは幼い頃より信仰的な家庭環境の中で成長したことがわかります。

大預言書(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ダニエル)の中で文章が最も長いエレミヤ書は、詩文による預言から史家的編集、そして散文の説教を織り交ぜた書となっています。また、大まかには年代順に記述されていても、それが必ずしも厳密でないことから、他の預言書以上に理解することが難しい書とされています。しかし、それでも多くの人が、このエレミヤ書に心惹かれるのは、何故なのでしょうか。イザヤ書は、記述預言がほとんどであり、迫害を受けたことが明記されておらず、エリヤとエリシャは歴史のただ中を歩みましたが、歩めたその強さは、神の奇跡を持ち合わせたことにありました。ダニエルについては、「ライオンの穴に落とされた」など、迫害の記述は幾つかありますが、人間的内面まではあらわにされていませんでした。エゼキエルには、「彼は、本当に人間だったのか」と、疑いたくなるほどの神々しさが漂っていました。彼らに比べるとエレミヤには、彼らが持ち合わせたような特徴らしきものはありません。しかし、他の預言書以上に「エレミヤその人が表現されている」ことで、人は惹きつけられるのかもしれません。

エレミヤは、「神の審判」であるメッセージを神さまから託されました。それは、人々に「断罪と悔い改め」を迫るものでした。神さまは、「断罪と悔い改めをすることにより、ユダを救う」と、エレミヤに語らせましたが、それは人々に受け入れ難いものでした。また、解放の預言も語らせましたが、エレミヤに対する不信感から多くの人々は、耳に入ることを「よし」としませんでした。エレミヤが語ったことは、ユダの王はじめ高官たち、宗教的指導者、そして民衆が願っている事とは、真逆の事だったのです。ですから、「ユダという国に対し、エレミヤはたった1人で立ち向かった」と、いってもいいほどに、彼は孤独の中にいました。

彼の苦悩は、「ユダが滅亡する」ことにありますが、それと同時に彼は常に十字架を負わなければなりませんでした。エリヤ、エリシャには、3年半地に雨を降らせず、他国の軍隊を一夜のうちに退け、枯れた谷に水を湧かせるなど、「神の御手」を証明する奇跡が行われました。しかし、エレミヤにはそれがなかったのです。彼が神さまから遣わされ、彼の言葉が神さまからの預りものであることを証明できたのは、「時の推移」でした。「歴史」だけが、彼の真実を証明できたのです。もし、「…煮えたぎった鍋が見えます。北からこちらへ傾いています」(13節)、このバビロンに滅ぼされる預言を、エレミヤが召された初期に与えられていたとしたなら、この言葉が真実であると証明されるのに、40年待たなくてはいけなかったことになります。その40年もの間、「エレミヤよ、お前は本当に預言者なのか。お前が預言したことは本当なのか。お前が預言者で、預言が神からのものだったら、なぜ事が起こらないのか」と、彼は言われ続けたことになります。エレミヤは、「エリヤやエリシャのように奇跡が起こせたら…」と、なんど思ったことでしょうか。そうすれば、「たった一つの奇跡でも、人々は自分を預言者と信じ、神の言葉にも耳を傾け悔い改め、この国は傷つかず滅びなくてすむ」からです。

エレミヤは、「涙の預言者」、「悲しみの預言者」と呼ばれています。確かに、彼は常に十字架を負い、その十字架から流れる血が衣服から皮膚まで達するような人生を過ごしていました。しかし、エリヤにはその血が自分から流れ出たものではなく、それが主の血であり「救いと聖別のための血」であることを知っていました。だから、彼は十字架を負い続けることができたのです。

エレミヤ書全体のテーマは、「十字架と復活」です。神さまは、偶像礼拝に陥ったユダの罪を裁き清めるため、捕囚の道を歩ませることを決断されました。そのためにバビロンのネブカドネツァルを立て、彼を用いられました。そして、ユダの国民に対し「神の裁きとしてバビロンの支配を受け入れよ(十字架につけ)、そうすればあなた方は生きる(復活する)」と、メッセージされました。神さまは、ユダヤの民をバビロンに行かせることで、みことばの実現を目の当たりにした民を、悔い改めへと導かれました。そうすることで、彼らは主に立ち返ることができたのです。誰一人として、自分の罪の価を支払うことはできません。それができるのは、神の独り子イエス・キリストのみです。バビロンに行くことは、その主の十字架につくことでした。主に立ち返るためには、主の差し出した恵み「十字架の贖い」を受けなくてはいけません。それを得た者だけが、新たに神の前で生きることができるのです。それが復活です。

エレミヤの召命

エレミヤが何歳で「神の召し」を受けたのか、定かではありません。7節の「若者にすぎない」との言葉、そして、その後の40年を超える預言活動から、おそらく20歳前後であると推測できます。そうであるとしたなら、彼がエジプトに連れ去られ、そこで天命を全うしたのは60歳を超えていたことになります。

神の召命についてパウロは、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1章26~31節)と語っています。

神さまが選ぶ者は、「自分を誇る者ではなく、主を誇る者」です。「真の知恵、そして人を心から満足させるもの」、それは神さまの元からくるものです。その事実を認め、へりくだることもなく、自分を一角の人物だと信じ疑わないような人に、神さまはご自分の大きな働きを委ねられることはできません。エレミヤが神から呼び止められたとき(5節)、彼は、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(6節)と、答えました。彼は、まさしく「主を誇り、自分を主の前にへりくだったもの」とした、神さまに選ばれるにふさわしい人だったのです。

2つの召命

神の働き人にとって大事なことは、「本当に神に召されたのか否か」ということです。5節の「わたしはあなたを母の胎内…」この言葉は、音声として聞こえたのでしょうか。確かに、そのようなこともあるでしょう。しかし、ほとんどの場合、そうではありません。また、続く6節「ああ、主なる神よ…」とエレミヤが拒んだのも、「すぐ応答したのか、かなり時間が経過してからのものなのか」定かではありません。そして7節の、「若者にすぎないと言ってはならない…」は、さらに時間が経っていたかもしれません。

いずれにしても神の召しとは、

  1. ある思い」が心の中で消すに消せない状態になる
  2. 「その思い」が激しく、または静かにいつまでも浮ぶ
  3. 「その思い」が自分の環境を超えた声で表現される
  4. 自分の願っている道が閉ざされ、願わない別の道が開けたりする
  5. 助言者や他者の意見が一致することを通し、自分でない者の意思に動かされているとしか思えない状況に出会う

以上のような状態が続き表れた場合、それは「神の声」といえます。そして、それら一連の働きは、「御霊の聖さ」によって包まれています。なぜなら御霊の思いは、「聖さ」にあるからです(参照・ヤコブ書3章17節)。

【第一の召命】

神さまは、ある日突然エレミヤを預言者として召したのではありません。そのもっと以前から、彼はすでに召されていました。それも「わたしはあなたを聖別し」(5節)の言葉からも分かるように、「献身者」として召していました。神さまが地方の貧しい祭司の家庭を選び、そこにエレミヤを授けられたのは、「祈り、みことば、日常の話題、預言者フルダ、多くの信仰的な人々」に囲まれた環境で、エレミヤを「献身者」として育てるためでした。エレミヤ同様、歴史の中で神に召された多くの人々は、「神を信じる敬虔な家庭」から輩出されています。 このように、神さまがご自分の大きな働きを担う人物にされる第一の召命が、「聖別=献身者」です。なぜなら、人は「預言、宣教、伝道」など、神さまのすべての働きを担うために、まず「聖別された者=献身者」となる必要があるからです。

ペトロは献身について、「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地にある離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて『霊』によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」(ペトロ1章1~2節)と、記しています。またパウロは、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12章1節)と教えています。

一般的にキリスト教の世界で考えられている「召命を受ける」とは、「神さまのある種の働き(牧師、伝道師、宣教師、聖書教師、音楽伝道…など)を担う」と解釈されがちですが、神さまの第一の召命は、「あなたを聖別し=自分を神に献げる」という召命を受け取ることにあります。

【第二の召命】

神さまは、第一の召命に応えた者に対し、第二の召命「神の働きのために仕える」を用意されています。「神の働きのために仕える」とは、コリント人への手紙、エフェソ人への手紙に書かれている様々な聖霊の賜物(使徒、預言者、教師、牧師、伝道者、執事など)を用い、キリストの体を建て上げ、一人ひとりをキリストの御形にするための働きをいいます。これら第二の召命は、とても重要な働きとなりますが、第一の召命に先立つものではありません。なぜなら、第二の召命「主の働きに仕える」ためには、第一の召命である「聖別=献身」を受け取らなくてはいけないからです。では、「第一の召命」を受け取らずに、「第二の召命」を行うとどのようなことが起きるのでしょうか。

ある教会で、その働きを自他ともに認める役員が、あることをキッカケに役員を辞めることになりました。すると、その人は教会に来なくなり神さまからも離れてしまいました。一体、この人に何が起こったのでしょうか。それは、彼が「第二の召命」である「聖霊の賜物(役員)」に仕えていただけで、「第一の召命」である「聖別=献身」されていなかったことに原因があります。なぜなら、第一の召命を受け取っているクリスチャンにとって、役員、送迎者、掃除係、そしてメッセージを受け持つことでさえ、みな等しい働きとなるからです。

第一の召命は、すべての者に等しく与えられますが、第二の召命は人により異なります。では、どのようにして、それが「神からの召し、第二の召命だ」と、わかるのでしょうか。

生まれつき備わっている才能
神さまは、エレミヤ誕生前から、この時代の「神の器」とするために、彼を選んでいました。それは神さまが、「神の器」としての働きに役立つ才能をエレミヤに用意されていた、ということです。たとえば、「神さまはある日突然、神殿の建築を考えられ、急に建築作業者が必要となり、たまたまそこにいた文学青年をその建築の責任者に任じた」…などということをなさるでしょうか。エレミヤは、神さまによって備えられた祭司の家、信仰の環境の中で「預言者」になるべく、育み造られていきました。しかし、この才能は、そのままでは「賜物」になることはありません。なぜなら神さまは、ご自分の栄光のために用いられるもの全てに、「火」を通されるからです。この場合の 「火」とは、「聖霊の御手」のことであり、聖霊が第一の召命「聖別=献身」により、人の持つ才能に触れることにより、「才能」だったものが「賜物」へと変えられるのです。
御霊の内的衝動
「…諸国民の預言者として立てた」(5節)、この言葉は、「ある時、音声として聞いたのか」、あるいは「小さな声がくる日もくる日も彼の心から離れなかったのか」、または「圧倒されるような神さまの思いの迫り」であったのか…いずれにせよ、それは「聖霊による内的衝動」であり、時間の経過とともに「神さまの御心に従うよう導かれる迫り」であったといえます。
みことばによる確信
「聖霊の迫り」は、みことばによりさらに明らかにされます。神さまは、ご自分の意思を伝える最大の手段として、人を通し聖霊により書かれた聖書の言葉を用いられます。したがって、神さまの御心は、聖霊に導かれた聖書の言葉により、裏付けされ確信を深めることができるのです。
環境の配置
上記の三つ(生まれつき備わっている才能・御霊の内的衝動・みことばによる確信)は、「その人が内的に体験できること」として備えられますが、その上さらに、「現実的な環境」も備えられます。それは、自分の思いや努力を超えたところでの「ある人との出会い」や、召命を行うために「環境が開かれる」など、現実的に自らが行動できるよう道が整えられていくことをいいます。

以上四つの事柄が、ある一点に焦点を合わせる働きをするならば、それは「第二の召命」であると考えられます。ただ、エレミヤが最初に「第一の召命=献身者」、その後「預言者」へと召されていったことからも分かるように、第二の召命は、第一の召命の次に与えられて然るべきものです。

多くのクリスチャンたちは、第一の召命よりも第二の召命に心動かされます。たとえば、Aという人が牧師に召され教会の責任を負い、メッセージを取りついでいたとします。しかし、彼は牧師でありながら、神さまとの個人的な関係を密に持てずにいます。Bさんは一家庭の主婦として召され、毎日家事に追われ神さまとの交わりに時間を割くことがなかなかできませんでした。しかし、彼女の心はキリストにささげられていました。さて、この二人の内、どちらが喜びに溢れ生きているでしょうか。それは、牧師ではなく主婦ですね。なぜなら、牧師は第二の召命に生き、主婦は第一の召命に生きているからです。人を生き生きとした喜びに満たすのは、第二の召命以上に第一の召命にあるのです。一方の牧師は、「第一の召命」を受け(牧師としての才能が賜物へと変えられ)、「第二の召命」に生きる(神の働きのために仕える)べきなのです。

エレミヤは、最初に預言者に召されたのでなく、献身者に召されました。献身者だったからこそ、次に預言者に召されたのです。

服従

神さまは、すべての者をご自分の「僕」として召されています。しかし、「その召命」は、自動的にその者に成就されるわけではありません。神さまがエレミヤを母の胎内に宿る前から選んでいたとしても、エレミヤがそれに応えなければ、その召命は成就しませんでした。ある人たちは、「神がエレミヤを選ばれた。だから、エレミヤがあのようになったのだ」、と「神の予定」を大きな問題として捉え考えます。確かに、そこには「神の予定」があります。ありますが、その「神の予定」だけに重きを置き、論じ合っているようでは、いつまでも答えが見いだせない状態に陥ってしまいます。問題は、「神の予定」を論じ合うことではなく、いかに「服従」すべきかを考えるべきです。信仰世界の問題をとく鍵は、この「服従」にあるといえます。

多くのクリスチャンの関心は、とかく「どんなことを知ったか。今まで知らなかった聖書の理解を聞いたか」などにあるようです。聖書の普遍的な真理については、教会に3年も通っていれば、信仰の歩みに必要となる十分な知識を身に付けることができるものです。では、それ以上に何が必要となるのでしょうか。新しい知識をより多く身につけることで、より信仰的になれるのでしょうか。いいえ、それは大きな間違いです。必要なことは、新しい知識ではなく、「聖書のメッセージに服従するかどうか」という、実にシンプルなことにあります。メッセージを聞くたびごとに、「自分が服従していない部分は、一体何だろう…どうして服従できないのだろう…」と「自分自身を神の前に置き、尋ね、祈ること」、これが信仰の成長へと繋がっていくのです。

エレミヤは、「自分が神さまに仕えるために召された」この事実を明確に自覚し、それに基づき行動し応えることができた。そして、やがて成長したとき、神さまは「諸国民の預言者として立てた」との召命を彼に与えられたのです。

日本のクリスチャン人口は、わずか1.1%であるという統計が出されています(平成29年度文化庁)。この現実をどのように受けとめるべきなのでしょうか。ここでわたしたちは、その数の少なさを嘆くより、驚嘆の声を上げるべきではないでしょうか。なぜなら、その中に自分が選ばれた確率は、大変な恵みを証明していることになるからです。

エレミヤのように、多勢の考えと逆の声に耳を傾けるのがクリスチャンです。それは、わたしたちにとっての「細い道であり狭い門」です。「滅びに通じる門を入り広い道を歩く人々」に語らねばならないという使命は、今日のエレミヤである私たちクリスチャンに委ねられています。 「若者にすぎないといってはならない。わたしがあなたをだれのところに遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ」の主の御命令に従って今日も歩んでいきましょう。

1998年5月13日
エレミヤ書聖書講解第二回に続く…

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