9章1節
イスラエルよ、喜び祝うな。諸国の民のように、喜び躍るな。お前は自分の神を離れて姦淫し、どこの麦打ち場においても、姦淫の報酬を慕い求めた。
民は喜んでいましたが、それが罠となっていました。
バアルは、人が求める欲望…豊穣と性欲…の二つを満足させる神でした。神殿に行き礼拝して豊穣を祈り、その帰りに神殿娼婦と交わることは、穢れではなく神聖な行為となり、罪を正当化できました。
一方、主なる神は、「わたしをおいてほかに神があってはならない」(出20章3節)と言い、さらに「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ11章45節)と勧めます。
肉に生きる人にとって、バアルは喜びを満たし、主なる神は憂うつにさせるように思えます。しかし、バアルの与える喜びは一瞬で、後に毒麦であったことに気づき、最後は焼かれます(マタ13章30節参照)。
それがその後の3節、「麦打ち場も酒ぶねも、彼らを養いはしない。新しい酒を期待しても裏切られる。… 彼らは主の土地にとどまりえず」(2~3節)です。
友よ。私たちの戦いは、罪や困難や環境や他者にあるのではありません。それらと戦っても勝ち目はありません。罪と戦うのは主です。ですから、あなたの罪や困難や環境と戦ってくださる主イエスの中に、自分が留まることがあなたの戦いです。偶像礼拝の罪すらも、自分の力では負けます。主の福音によってのみ、律法を全うすることができるのですから。
9章5節
祝いの日、主の祭りの日に、お前たちはどうするつもりか。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創1章31節)。
神の創造目的は、人々と共に「祝いの日、祭りの日」を持つためでした。祝いと祭りは、神と人が交わる時、愛し合う時、喜び合う時、礼拝する日のことです。
「エデンから一つの川が流れ、園を潤し…四つの川となった。第一はビション(豊か)、第二はギホン(恵み)、第三はチグリス(結実)、第四はユーフラテス(力)でした。神の命の水は全世界に流れ込み、一人ひとりを、家族を、民族を、国を、全世界を、「豊か・恵み・結実・力」に満たすことができます。
しかし、命の水が止まる時、人々は渇き・飢饉・絶交・愛が冷え・憎しみ争うようになります。そこには、豊か→貧しい、恵み→貪欲、結実→飢饉、力(建設的)…破壊力…へと変わります。その結果、「見よ、彼らが滅びを逃れても、エジプトが彼らを集め、メンフィスが葬る。彼らの銀も宝物もいらくさに覆われ、天幕には茨がはびこる」(6節)が現実になりました。
主に贖われた友よ。これらの原因は、あの国、あのテロリスト、貧富の差、社会保障の不備にあるのではありません。神に造られた人々が、真の命の水を飲めなくなっているからです。そして、さらなる原因は、神の子たちと教会が、主の祝いの日と祭りの日を心から喜べないでいるからではないでしょうか。
9章7節 ①
裁きの日が来た。決裁の日が来た。イスラエルよ、知れ。お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。
神が預言者や霊の人を遣わしても、民から愚か者にされます。でも今、裁きと決済される日がきました。
それでは、なにが「裁かれ、決済」されるのでしょうか。それは、ただ一点、誰を「王・主としたか」によってです。
王・主とすることについて、遠い国から星に導かれて来た三人の博士が教えます。彼らは…、
しかし、「黄金、乳香、没薬」は、彼らが幼子に捧げたのではなく、父なる神が博士たちに捧げた恵みです。それこそ福音(1. イエスを神として与えた 2. 十字架による罪の赦しを与えた 3. 復活の命を与えた 4. 神の子として生きる生きる力と聖霊を与えた)です。
友よ。決済と裁きの日に、あなたが義なる者として立てるように、神が御子を与えました。神の裁きは、「御子イエスを信じたか否か」への裁きなのです。
9章7節 ②
裁きの日が来た。決裁の日が来た。イスラエルよ、知れ。お前の不義は甚だしく、敵意が激しいので預言者は愚か者とされ、霊の人は狂う。
神の裁きは、御自分を「王・主としたか否か」の一点にかかります。なぜなら、神は御自分が主とされるとき、その者に御自分の全ての業を行使できるからです。「信仰」とは委ねることの「同意書」です。
三人の博士たちが、幼子にひれ伏して拝んだ(同意した)時、神は御子イエス(黄金)と彼の御業(十字架と復活)を与えることができました。
また、悪霊に憑かれた娘を持つ女が来て、「イエスの前にひれ伏し」ました。主は女の信仰を試みましたが、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタ15章28節)と言って癒されました。
「裁きと決済の日」は、私たちの行いによって判断されると勘違いしてはなりません。その日は、「主イエスの御業」が判断されるのです。それは、主イエスの御業(罪の赦し・復活)が人に受け取られているか否かによるのです。出エジプトの時、長子の生と死は、家の鴨居に塗った血による選別であり、彼らの人間性や能力や血筋でもありませんでした。
友よ。信仰は、「主よ、私をあなたに委ねますので、あなたの御心のままに私に行ってもかまいません」という同意書です。それが「ひれ伏す」ことです。また、週ごとに結ぶ神との契約としての礼拝です。すると主は、御自分の御心をあなたに行うことができます。
9章8節
預言者はわが神と共にあるが、エフライムは彼を待ち伏せて、その行く道のどこにも鳥を取る者の罠を仕掛け、その神の家を敵意で満たす。
神は、偶像礼拝に走る北イスラエルだからこそ、エリヤ、エリシャ、ホセア、アモスなどの多くの預言者を遣わしました。しかし、彼らは預言者の言葉を、罠を仕掛けて鳥を取るようにもてあそびました。
預言者は神の言葉を語る者ですから、預言者を「みことば」と置き換えることができます。すると、預言者に対する態度は、みことばに対するものとなり、それによっては祝福か呪いかの道を歩むことになります。
預言者なる聖書のメッセージは、イエス・キリストです。旧約聖書を知り尽くしたパウロなのに、イエスが人にしか見えませんでした。それが神に見えたのは、聖霊によりました。そして彼は、「わたしは…イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(Ⅰコリ2章2節)と言うまでになりました。
霊的な人とは、神の様々の賜物を持つ人ではなく、イエス・キリストの中に自分が入ってしまう人、神の目的に自分を合わせて生きる人です。
友よ。「神の中に入り、神の目的に自分を合わせる」の二点がいつも心を占めているならば、あなたは「預言者とみことば」を正しく受け取っている人です。罠を仕掛けて預言者を捕る者でなく、預言者とみことばに捕らえられる人、霊の人になってください。
9章9節
ギブアの日々のように、彼らの堕落は根深く、主は彼らの不義に心を留め、その罪を裁かれる。
士師の時代を経てイスラエルは王政に移行しました。預言者サムエルは、サウルに油を注ぎ王としましたが、サウル王は神の御心を無視し自己中心に動き出します。「ギブアの日々」とは、サムエルがサウルを王としたことを嘆いた時の地名で、「間違った判断をした日」と理解することもできます(上サム15章参照)。
王政は多くの問題を生み出しました。何よりも、王政を敷くことによって、「主(神)」と「王(人)」を取り違える罪を犯すことになります。人を支配できるのは神であって人ではありません。人が神に代わるところに、人と人、民族と民族、国家と国家の間に悲惨な結果を作り出すことを歴史が教えています。
初代王サウルは、ペリシテの圧迫から救われようとした民衆によって立てられました。しかし、民は自分が立てた王の奴隷とならねばなりませんでした。ダビデ王の息子の一人アドニヤは、神の御心を無視し、思いあがって、「わたしが王になる」と自ら宣言し、後に死を免れませんでした(列王上1章参照)
友よ。誰かを自分の王に立てても、自分が王になっても、結局は同じように霊的堕落の道を歩みます。「主(神)」と「王(人)」を間違える霊的堕落こそ、最も深い罪となり死に至らせます。三人の博士は、自分の国の王でなく新しい王を探してユダヤに来ました。彼らのように本当の主なる神にひれ伏しましょう。
9章10~11節
ところが、彼らはバアル・ペオルに行った。それを愛するにつれてますます恥ずべきものに身をゆだね、忌むべき者となっていった。
預言者たちが、一番大事なこととして一番多く語ったことは何でしょうか。それは、「偶像を造ってはならない」、すなわち、姦淫の罪への忠告と断罪でした。
全ての人にとり一番大切なものは、「命」ですが、「正しい者は…一人もいない」(ロマ3章10節)と宣告されます。これは、「神の命を持つ人は一人もいない」でもあります。なぜなら、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなく」(同23節)なったからです。
この罪とは、神を神としないために、神の命を持てないことです。救われるとは、神の命を持つことです。そしてその命は、自分一人でも、行いによっても、人間同士でもつくれません。神の子の命は、唯一、真の神と「継がり・交わる」中に存在します。
そうすると、人の血筋や能力や善い行いよりも、に大事なものは「神の血筋」です。血筋が正しければ、能力や民族など、人の状況は関係なくされます。なぜならば、誰と継がり交わるか、が命の質を決めるからです。「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカ3章6節)です。
友よ。神を神としない罪以外の罪は全て赦されます。神があなたと一つになってくださるからです。ですから、「神を神とする」この一点にどれだけ注意を払っても払い過ぎることはありません。
9章11~12節
エフライムの栄えは鳥のように飛び去る。もう出産も、妊娠も、受胎もない。たとえ、彼らが子供を育ててもわたしがひとり残らず奪い取る。
「荒れ野でぶどうを見いだすように」(10節)神に喜ばれ、多くの恵みの実を結ぶものと期待されたエフライムでした。しかし、栄えの鳥は飛び去り、子供を産むことも育てることもできなくなると言います。
命は何によっても作り出すことはできません。命は、命によってのみ生まれ、次の命を生み育てます。神の子の命は、御霊によって内住します(Ⅰコリ3章16節参照)。そして、神は神の子たちに、「すべての造られたものに福音(神の命)を宣べ伝えなさい」(マコ16章15節)と命じられました。神の命を持つ者が、次の命を罪人に知らせ、命を求めさせることができます。
しかし、「彼らからわたしが離れ去るなら、なんと災いなことであろうか」(12節)と続くように、神から離れるならば、神の子の命の受胎も妊娠することも、まして子供の命を生み育むこともできません。
霊の命の法則は、「わたしにつながっていなさい…わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるなら、…わたしの弟子となり、豊かな実を結ぶ」です。
友よ。命を理解するのも、命を見るのも、聖霊の光によってです。「命の泉はあなたにあり、あなたの光(聖霊)に、わたしたちは光(主イエス)を見る」(詩36・10)のです。それは主から離れないで継がり続けることです。主から鳥のように飛び去ってはなりません。
9章13節
緑に囲まれたティルスのように、わたしはエフライムを見なしてきた。しかし、エフライムは自分の子供たちを、餌食として差し出さねばならない。
「緑に囲まれたティルス」とは、現在のヨルダンのベイルート付近の豊かな場所で、神の民には羨望の地でした。神は、御自分の霊の恵みをティルスのようにイスラエルに注ぐのが願いでした。
しかし、祝福された民は、むしろ「自分の子供たちを、餌食として差し出す」ようになると言います。彼らが命ではなく死を受け取るのはなぜでしょうか。それには両極からの理由があります。
神は人類が堕落した時から、「-」と「+」を動物犠牲という一つの儀式で教えていました。「-」は、罪の赦しを受けたい人が神殿に羊を連れて来て、頭に手を置き自分の罪を羊に移し、頸動脈を切って殺します。そこで死んで行く羊こそ罪の罰を受ける自分の姿です。
「+」は、苦しんで死んで行く羊が、自分自身でなく、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ1章29節)とヨハネに言われたイエス御自身だからです。
緑に囲まれた霊のティルスに置かれた友よ。あなたの罪というマイナスという横の棒が、天から降ってこられたイエスという恵みに貫かれて「十字架」になりました。マイナスとプラスの両方を真剣に見つめると、そこには主イエスの十字架が見えてきます。
9章17節
わが神は彼らを退けられる。神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国にさまよう者となる。
「旧約聖書の神は、なんて厳しいのでしょう」とは誰でも感じる思いです。しかし、本当に神は厳しい裁きの神なのでしょうか。それでは、エレミヤの言葉と彼の行動をもって神の姿を見て行きましょう。
エレミヤはユダに遣わされた預言者でした。北イスラエル滅亡から130年程して、南ユダはバビロンの捕囚となり祖国から引き離されました。
その時代の真ん中でエレミヤは語ります。
「私は…彼らに命じた。『私の声に聞き従え。そうすれば、私はあなたたちの神となり、あなたたちは私の民となる。私が命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。』しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らの頑なで悪い心のたくらみに従って歩み、私に背を向け、顔を向けなかった」(7章23~24節)。
さらにエレミヤは、「バビロンの奴隷となることでユダは生きる」とも預言します。それに対し指導者たちは息り立ち、彼をスパイに仕立てるほどでした。
バビロンにエルサレムが落された時、ユダからエジプトに逃る一団がいました。エレミヤは彼らと共にエジプトに下り、そこで生涯を終えました。
友よ。神が厳しく語るのは、裁きでなく救いです。それでもなお受け入れない民を捨てることをせず、エレミヤが反逆の民に同行したように、主は罪人と共に地獄までも行かれます…愛する者を救うために…。