8章1節 ①
角笛を口に当てよ。鷲のように主の家を襲うものがある。イスラエルがわたしの契約を破り、わたしの律法に背いたからだ。
イスラエルは、神も世も富も、と半焼の菓子となっていました。「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、…口から吐き出そう」とあるように、鷲(ハゲタカ)が死体(イスラエル)上空を旋回し始めています。ですからホセアは、「神との契約・律法を守れ」と必死に角笛(預言)を吹き警告します。
信仰の原点は、エデンの園の中央にありました。そこに「命の木」と「善悪を知る木」が置かれました。命の木は「イエス御自身」で、善悪を知る木は「戒め・十戒」でした。命の木からは取って食べてよく、善悪の木からは禁じられました。「取って食べる」とは、戒めを人が自分の手に握ることです。戒めは神が持つときは真理ですが、人が持つとその人が神となります。なぜなら、善悪(真理)を決める者となるからです。
「旧約・新約」の文字は、約束の「約」です。聖書は道徳でも教理でもなく、神と人との契約の書です。すべてはこの契約に基づいていますから、聖書が語る信仰に曖昧はありません。人が契約を守るとき、神は人に働けますが、破り背く時は神を働けなくします。
友よ。子どもがどんなに自分を誇り偉ぶっても、親がいなくなれば無力になります。同じく、人も親との関係の中で人となり、あれもこれもできるのです。子(人)は親(神)の中でだけ生きられるのです。
8章1節 ②
イスラエルがわたしの契約を破り、わたしの律法に背いたからだ。
死体のある所にハゲタカが舞い降ります。体の免疫が弱ると病原菌が増殖するように、信仰が弱り肉が強くなると、サタンとこの世が力強く動き始めます。
イスラエルの信仰が崩れたのは、彼らが「契約」を破り「律法」に背いているからだと言います。そこで、あえて「契約と律法」を、「ぶどうの幹(契約)と枝(律法)」に例えることができます。
幹は一本ですべての根幹、十戒の第一戒「わたしの他に神があってはならない」です。そして、この幹(第一戒・契約)に他の九つの枝(第二戒から十戒・律法)がつながります。この幹が弱ると、その後に続く律法のすべてが真理から外れ、道徳になり下がります。
その律法はさらに二つに枝分かれし、「偶像を造るな・主の名をみだりに唱えない・安息日を聖とせよ」の三つは、第一の戒め、「神を愛する」ための律法となります。次の第五戒~十戒までは、「自分を愛し、隣人を愛する」ための律法となります。
イスラエルが破ったのは、契約(神だけを神とする)です。その結果、律法は形だけになり、むしろ律法による自己義認に進んで行きました。
友よ。あなたに大事なのは、「神よ、あなただけを神とします」という契約です。すべての律法は神を神とするためです。そして、神を神とするとき、他の律法は神の力によって全うすることができるのです。
8章2節
わたしに向かって彼らは叫ぶ。「わが神よ、我々はあなたに従っています」と。
「他人をだませる人は、自分をだませる人だ」と言われます。神に向かって「我々はあなたに従っています」と言う人ほど、自分を欺いていることになります。
「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(Ⅰヨハ5章3節)は厳粛な言葉です。主は戒めについて、「第一は神を愛すること、第二は隣人を愛すること。この二つに律法全体と預言者がかかっている」(マタ22章34~40節参照)と言われました。
何より大切な戒めは、「神を愛する(従う)こと」です。それは、人が神に仕えることではなく、主に仕えていただくことです。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるため…多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た…」(マタ20章28節)。
さらに、「神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです」(Ⅰヨハ5章4節)とあるように、神を愛する者には第二戒以降の戒めは難しくありません。なぜなら、神する者には、神の福音が戒めを守る知恵と力を与えます。神の戒めは、福音によって全うされます。
友よ。「わが神よ、私はあなたに従っています」と言う者は、律法によって福音に到達する間違いを犯します。むしろ、「わが神よ、私をあなたに従う者にしてください」と祈りましょう。その人は、福音によって律法を全うしようとする神に喜ばれる人です。
8章3節
しかし、イスラエルは恵みを退けた。敵に追われるがよい。
民は、神の角笛であるホセアの言葉を受け入れようとしません。その結果、神の恵みを退けて敵を招き寄せ、敵に追われるようになると言います。
神の恵みを退ける理由の一つは、「恵み」が何かわからないからです。ある人は、神は繁栄や平安を与えてくださると信じます。しかし、神が与えたい信仰生活の最終段階にある恵みは、キリストの御形になる品性という恵みです(Ⅱコリ3章18節参照)。
その品性は、自分の意に添うことの反対のことで作られます。たとえば、他者から批判された時、それを退けて弁明し、逆に相手を攻撃したくなる自分の思いを主の上に置きます。それを主から受け取り、何分の一でも自分に当てはまることがあれば、主の前に膝まずきます。主に対しての従順によって、肉の命を霊の命へと変貌させることができます。
しかし、主の御手を退けると、外敵以上に、「憎しみ・怒り・反抗・みじめさ…」などの内部の敵に追われます。人は外敵から逃げられても、内部の敵(自分自身)からは逃げられず苦しみ続けねばなりません。
友よ。「キリストの御形」になることの的が明確ですか。「わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」(Ⅰコリ9章26節)。敵に追われる者でなく、神に追われる(取り扱われる)者となってください。
8章4節
彼らは王を立てた。しかし…わたしから出たことではない。彼らは高官たちを立てた。しかし、わたしは関知しない。…それらは打ち壊される。
彼らは、王や高官たちを立てて一生懸命に国を繁栄させようとしますが、神の御心ではありません。
士師の時代、鉄を持つペリシテの台頭に怯えた民は、「ほかの全ての国々のように、我々のために裁きを行う王を…」と叫びました。それに対して主は、「彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」と言います(以上・サム上8章参照)。
彼らの求めは、「主(主なる神)ではなく王(この世の王)」でした。歴史はこの求めを繰り返し続けました。
この世の王を求めた者は、失望を得ることになります。彼らは、神の代理者としての王を求めますが→その王はやがて神と同一視を求め→神の化身を欲求し→絶対専制君主になるからです。そして、自分の権力、富、名声のために徹底的に民を奴隷にします。
人は、魂の命を求めるときは「主(神)」を求め、肉の命を求めるときは「王(この世)」を求めるものです。肉を満たすものは、この世にあるからです。
友よ。世の王を求めるなら、求めた王によって「それらは打ち壊される」との冒頭のみことばを受け取ることになります。しかし「主」を求めるなら、「わたしを苦しめる者を前にしても、…食卓を整え…頭に香油を…わたしの杯は溢れます」(詩23篇)が実現されます。
8章5~6節
サマリアよ、お前の子牛を捨てよ。わたしの怒りは彼らに向かって燃える。いつまで清くなりえないのか。…職人が造ったもので、神ではない。
「北イスラエル」の中心部族は「エフライム」、都は「サマリア」ですから、三つの呼び名は南ユダと分裂した十部族のことでした。分裂後の北イスラエルは、何人もの預言者の警告も聞かず偶像礼拝に走りました。
アダムとエバが善悪の実を取って食べた後、神の顔を避けて園の木の間に隠れました。「隠れる」とは「守ってもらう」であり、それが偶像となります。人の居場所は「神の園・園の中央(霊の世界)」であって、「園の木の間(自然界)」ではありません。自然界に隠れることが、偶像礼拝の始まりでした。
なぜ自然界(石・木・山・海・神社仏閣・教祖・文字…)に隠れるのでしょうか。それは、自然界の支配者は人間ですから、自己中心を自然界の中で正当化できます。物欲や性欲を正当化するために、豊穣の神・バアルを拝むことで罪から逃れようとします。
神は、人を御自分に似せて造りました。神が人に一番似たところは、「各(自由意志))」を持つことですから、人は「小神」になれる存在です。しかし、神に造られたことを知っているゆえに、自分が直接神にならず、自分の代理としての神・偶像を考え出しました。
友よ。「子牛を捨てよ」とは、単に偶像から離れるということではありません。それはより積極的に、「イエスを『神・主』として生きる」と言うことです。
8章7節
彼らは風の中で蒔き、嵐の中で刈り取る。芽が伸びても、穂が出ず、麦粉を作ることができない。作ったとしても、他国の人々が食い尽くす。
イスラエルは、真の神に導かれ、選民(証し人)とされたにも関わらず、風を巻いて嵐を刈り取り、実を結ばず、他国に奪われると言われます。
全ての人は、実り豊かな人生を迎える希望をもって人生を始めます。しかし、人生は嵐に翻弄され、得たと思うものまでも奪われます。「人全世界を得ても、自分の命を損じたらなにになろう」です。
その原因は、「風を蒔く」ことにあります。伝道者は「空の空、空の空、いっさいは空である」と断言しました。しかし、彼は虚無になっているのではありません。空である原因を、「太陽の下」だからだと言います。太陽の下とは、「この世」を表します。
実に人は、太陽の下(この世)で生きる者ではなく、土のちりで造られ、命の息(神の命)を吹き入れられて、太陽を超えた神の国で生きる者です。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」のです。風の中で蒔くとは、この世で実を結ぼうと苦闘する人の姿です。そこで得るのは、嵐と失望と喪失です。
友よ。「自分の考え、願い、理想、自己主張、世の繁栄…」という風を蒔くならば、嵐を刈り取ります。しかし、神だけを求めて待つならば、「突然、激しい風が吹いて」という聖霊の風を受けとります。この風は、「神の子の命と御霊の実」を収穫させてくださいます。
8章8~10節
イスラエルは食い尽くされる。…エフライムは独りいる野ろば。アッシリアに上って行き、貢によって恋人を得た。…彼らは諸国に貢いでいる。
イスラエルは他国に食い尽くされる、と神が言われます。その理由は、他国に気に入られようと貢を捧げ、雄ろばが雌を求めるように慕って行くからです。それは、「風をまいて、つむじ風(嵐・破滅)を刈り取る」(7節・口語)ことになります。
風は、相手へのラブコールとしての貢物であり、相手国の神々(偶像)も受け入れて気に入られようとして送る風です。
しかしそれらはイスラエルを救わず、むしろ「…諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって、彼らはもだえ苦しむようになる」(10節)と言います。「風をまいて、嵐(敵の襲来・奴隷として連れ去られる)を刈り取る」とはまさにこのことです。
アッシリアがイスラエルに求めるものは、貢物や自分の神々を拝んでもらうことではなく、彼らの領土と民を奴隷として支配することです。偶像を礼拝する者は、偶像によって利益を得るのでなく、むしろ飲み込まれて命を失います。
友よ。偶像とは、石や木や細工を施した物ではなく、アッシリアでありエジプトです。それが偶像になるのは、「主なる神」以上に、それらに救いを求めるからです。偶像の本体は、「ヤーヴェ(主)・エロヒーム(神)」だけを信じない人の心の中にあります。
8章11節
エフライムは罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった。
罪を償うはずの祭壇が、むしろ罪を犯す祭壇になったと言います。礼拝場所が罪の場になるとは…。
ダビデ王国は、三代目のレハブアムの時に分裂します。北のヤロブアム王は、「この民がいけにえを献げるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダのレハブアムに向かい…私を殺し…帰ってしまう」(列上12章27節)と恐れました。
そこで彼は、ベテルとダンに神殿を造り、主なる神と共に金の子牛も置きました。それは、彼がソロモン王に追われエジプトに保護を求めた時からの継がりでした。ヤロブアム王は、エジプトの力を借りたいために金の子牛も置くことになりました。
この世界では、良いことも悪いことも起こりますが、それらは中立と考えるべきです。大事なのは、その出来事を神によってか、あるいはそれ以外によって受け取るかです。神によって受け取る時は試練となり、そのほかは誘惑となります。ユダ族の圧政に苦しんだ他の十部族は、その苦しみのゆえに神に向かわず、エジプト(金の子牛)やアッシリア(バアル)に向かいました。試練は神に近づけ、誘惑は神から遠ざけます。
出来事に悩まされる友よ。神以外の方向こそ誘惑の中にいるのです。前面に障害物(困難・嫌いな人・病気・不条理…)があっても、神に顔を向け続けてください。神は必ず来て御元に引き寄せてくださいます。
8章13節
わたしへの贈り物としていけにえをささげるが、その肉を食べるのは彼らだ。主は彼らを喜ばれない。
民は、神に捧げた犠牲を自分自身で食べていると言われました。彼らは、自分で自分を救っていました。
主が十字架に付かれた時、通行人や律法学者から、「自分を神だと言うのだから、十字架から降りて自分を救え」と罵声を浴びせられましたが、主には降りる力がありましたが降りませんでした。それは、「友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」(ヨハ15章13節)が大きな理由でした。
しかし、それ以上の理由がありました。それは、「自分自身を救うこと」でした。主は、「命は父なる神の中にあり(ヨハ17章21節参照)、「父の御心を行うことにある(同4章34節参照)」と知っていました。
だから、荒れ野の試みでも、ゲッセマネの祈りでも、父なる神から離れないためにサタンを退け、御心に服従しました。十字架から降りないことが、父なる神に救っていただくことだと信じて身を委ねました。
友よ。誰かに非難された時、それを受け取れず、むしろ反逆するのは、十字架から降りて自分で自分を救っている姿です。主が自分で自分を救わず、父なる神に救っていただいた(復活)ように、あなたも十字架から降りて自分を救ってはなりません。「(自分で)自分を救おうと思う者は命を失い、私のために自分の命を失う者(十字架から降りず、主に委ねる者)は命を得るのである」(マタ10章39節参照)。