6章1節 ①
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」
熱心に犠牲を献げるイスラエルなのに、なぜ悔い改めて神の愛を受け入れることができないのでしょうか。
ヘンリー・ドラモンドが、「この世が罪として見ることができる罪は、『この世がそれらの罪を見ることができる』というそのことのゆえに、最も重大な罪ではない」と言いました。彼は、見える罪は罪の核心ではなく、本当の罪は見えないと言います。それは「行為の罪」ではなく「存在の罪」のことです。また、罪に至らせるその人の「命の質」とも言えます。
先にイスラエルの罪を、「淫行の霊」と表わした、「霊」の質こそ重要です。人は土のちり(自然生命)で造られ、命の息(神の命・霊)を吹き入れられて生きる者となりました。神の命の息こそ、人の命です。
ホセアの勧めは、「さあ、バアルや諸々の神々の偽りの霊を離れ、本当の造り主なる神のもとに戻ろう」です。「地上ではよそ者であり、仮住まいの者で…。この人たちは、自分が故郷を探して求めていることを明らかに表したのです」(ヘブ11章13~14節)。
神に造られて世に出てきた友よ。あなたの故郷は、「天」にあります。天の故郷は、やがて行く所でもありますが、あなたのただ中に造られた「神の国」です。そこには主イエスの血潮によって清められた聖霊の住まいがあります。そこがあなたの居場所です。
6章1節 ②
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」
冒頭のみことばを、神から人への言葉に変えると…
「さあ、私のもとに帰って来い。私があなたを引き裂いたのは、バアルや神ならぬものからだ。それは、あなたを癒したいためだ。あなたを打ったのも、わたしのところに引き寄せ、先祖から追い続けてきた死に至らせる罪を十字架で赦すためだ」と。
聖書理解において、「命の定義」は重要です。それは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハ17章21節)に示されました。父と御子の「継がりと交わり」に命がありました。そして、人の命は、三位一体の神との「継がりと交わり」です。
「継」の字は「継続」の意で用いています私個人中に命はありません。私と家族との「継がりと交わり」は「人の命」であっても神の命ではありません。だからこそ、神は御自分以外のものとの継がりと交わりを禁じ、そこから引き裂いて御自分との「継がりと交わり(永遠の命)」に入れようとします。
友よ。夫婦間で一番大切なことは、二人の間に誰も入れないことで、それは神とあなたの間でも同じです。あなたが神だけを神とするとき、夫婦が相手になんでも手出しできるように、神はあなたに御自分のあらゆる手を差し出すことができます。それが救いです。
6章1節 ③
「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。」
ホセアは愛の預言者と言われ、自分たち夫婦の体験からも神と人の関係を預言します。しかし、愛は甘えとは違い、そこには互いに負うべきことがあります。
悔い改めるには、二つの理解が必要です。
しかし、二つを理解しても悔い改めたとはなりません。①と②は聖霊の働きですが、①から②に移るためには、人の決断と行動が必要です。それを、「神は私たちに勝利ある命を与えるのではなく、私たちが勝利する時に命を与える」とチェンバース師が言いました。
「死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる」(エフェ5章14節)と言われたように、「『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった」(マコ3章5節)。
友よ。「手を伸ばし」「床を取り上げ、起き上がり家に帰る」のは、あなたの決断と行動です。「死者の中から立ち上がれ…そうすれば、キリストはあなたを照らされる」に今一度、目を注いでください。
6章2節
「二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。」
ホセア書の六章1節から3節は、悔い改めて神の御前に生きることを教えています。悔い改めるとは、どこに目標を置いたらよいでしょうか。
神を知らず、信じることもなかった時は、「あなたを私の神として受け入れます」が悔い改めでした。その悔い改めは、すでに神の子には完了しています。しかし日々悔い改めて生きるのが神の子の歩みです。
神の子の悔い改める目標には二種類あるようです。
前者は、律法的な悔い改めとも言えます。悔い改めが恵みを受け取る手段となるからです。この方向は、「律法→福音」へ向かっています。
後者は、福音的悔い改めと言えます。神が他のものに心惹かれていた者を、御元に引き寄せてくださった。だから、神の戒め(神を愛し、隣人を愛する)を守って神に喜ばれる生き方をしよう。この方向は、「福音→律法」に向かいます。
冒頭のみ言葉からは、「神は私の罪を赦し、主の復活の命を与え、神の子として、神と共に生きるようにしてくださった」との感動が伝わります。
友よ。悔い改めの最終目標は、主イエスの花嫁として、主と共に生きることを喜びとすることです。その他の恵みは、あってもなくてもかまわないのでは!
6章3節 ①
「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
「さあ、我々は主のもとに帰ろう」(1節)と勧めたホセアは、さあ「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう」と、さらに核心へと導きます。
ある有名な哲学者が「無知の知(自分が知らないことを知る)」が大切だと言いました。しかし、聖書の「知る」は、知識や理解をも超え、「アダムはエバを知った」ように、「命の一体化」を表します。
「信じたら救われる」の「信じる」は、「知的同意」と理解すべきです。一人の男性が一人の女性を、結婚相手に相応しいと理解しても結婚には至りません。互いに相手に自分を「委ねる」ことが必要です。「知る」は「信じる」を超えた「委ねる」です。
放蕩息子は父の傍にいて、父を知って(知的に)いましたが、本当は知って(委ねて)いませんでした。ですから彼は、遠い国(この世)にいて、飢饉(霊の枯渇)に遭遇しました。彼は、父なる神に自分を委ねることが豊かな命を持つことだと知りませんでした。そして彼の兄も、弟よりももっと近くにいましたが、父を知って(委ねて)いませんでした。
友よ。あなたは聖書に、教会に、牧師に、兄弟姉妹に、日々の出来事に、何を求めていますか。求めねばならないことは、「主の元に帰る(主と共に住む・神の中に入る)」ために、「主を知る・委ねる」ことです。
6章3節 ②
「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
主の御元に帰ることと、主を知ることを求める者に、主は曙のように必ず現れ、春の雨のように恵みを与えてくださると約束されました。それでは、どこで主を知って御元に帰ることができるでしょうか。
「主は曙の光・暁の光(新改訳)」のように現れる」とある「曙・暁の光」とは、暗い夜を追い払う朝の光のことです。そうすると、神の声を聴き、神を知るのは、暗闇の中を通った者であることが分かります。
神は常に語り続けていますが、人は自分の足で思い通りに歩ける昼日向には神の声は聞こえません。悲しみ、苦しみ、行き詰まりの夜に直面し、自分の光が細く消えそうになった時、やっと耳を傾けます。
詩88編には、徹底的に謙らされた人の祈りがあります。「主よ、私を救ってください。…私の魂は苦難を味わい尽くし、命の陰府にのぞんでいます。…あなたは地の底の穴にわたしを置かれます。影に閉ざされた所、暗闇の地に(7節)」と。
主を知ることを切望する友よ。主も、「わたしが暗闇であなたに話すこと」(マタ10章27節)と言われたように、主の御声(御心)を聞くのは暗い夜です。暗闇の後に来るのは、喜びですが、それは軽々しい喜びではなく、謙りという重い喜びです。今日も、重い謙りという恵みを受け取ることができますように。
6章3節 ③
「…主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる。」
試練の夜に御声を聴き曙の光を待つ者には、春の雨の恵みが訪れると約束されます。イスラエルでは、秋の雨の前に種を蒔き、その雨が芽を出させ成長させます。そして、春の雨が豊かな実をつけさせます。
神の子にも、秋の雨と春の雨は重要な意味を持ちます。秋の雨は、罪人に神の子の命を与え、春の雨は神の子を成長させて実を結ばせます。秋の雨は「新生」を、春の雨は成長と実を結ぶ「聖霊の満たし」を表していました(ヨエル書2章23節・3章参照)。
復活の主に出会ったのに恐れていた弟子たちは、ペンテコステを境に変わりました。それは、彼らが春の雨(聖霊の満たし=支配)を受けたからでした。
聖霊の満たしは、伝道するなどの行動以上に、神の子を「我生きるにあらず、キリスト我内に生くる」人にします。その人が聖霊に支配され、キリストの御形になることが春の雨の最大の目的です。弟子たちの人格が変えられたからこそ、その行動も変わりました。
すでに秋の雨の恵みをいただき神の子となっている友よ。秋の雨の命を受けていたからこそ試練の夜に御声を聴き、朝を待つことができたのです。暗闇を通させたお方は、さらに進み「我々を訪れる」と言います。主御自身が直接あなたを訪ねてくださると言います。主御自身があなたと共に生きるためです。春の雨の恵みは、主御自身の絶えることのない御臨在です。
6章4節
エフライムよ。わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。
神は、イスラエルに恵みを与え続けましたが、実を結ぶことができません。神は途方に暮れ、「どうしたらよいのか」とため息をついています。
人生を、春夏秋冬の四季にたとえることができます。誕生から青年期は春、働き盛りの年月を夏、収穫時期を秋、そして晩年を冬ともできます。しかし聖書全体から見ると、人生の出発は冬からのようです。アダムとエバが園の中央(霊的世界)から罪のゆえに切り離された時、肉体と心は生きていても、霊は冬のように死んだ状態になっていたからです。
そこに、秋の雨が注がれ命が芽吹いた時が、聖霊による新生です。そして聖別(キリストが大きくなること)される夏を過ごし、実りの秋、収穫の秋を迎えます。豊かな収穫、御霊の実、神を愛し隣人を愛する人生、そして肉体の死をもって墓に入るのではありません。神の子には、冬はすでに終わっており、秋という完成の時があるだけです。「そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた」(黙14章16節)。
友よ。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」のに、「刈り入れまでまだ四か月もある」(ヨハ4章35節)と言っていませんか。自分の姿に目を上げるのではなく、主に目を上げてください。
6章5節
それゆえ、わたしは彼らを預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。
神がイスラエルを取り扱うのは、預言者たちによってであると言います。「見よ、今日あなたに諸国民、諸王国に対する権威を委ねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」(エレ1章10節)。
神が初めに造られた世界は、「はなはだよかった」のに、「暴虐地に満ちる」ようになりました。しかし神はそれを投げ出さず、再創造されます。再創造である以上、古いものを「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」せずにはできません。古いものを取り除く分だけ、新しいものを「建て、植える」ことができます。
それにしても神は紳士的に行動されます。最初に預言者によって忠告します。それでも無視されると行動に出ます。その時には、「わたしの行う裁きは光のように現れる」とあるように、皆の前に罪を弁解の余地がないまでに明らかにします。それは、ちょうどアハブ王がエリヤの言葉によって忠告され、切り倒され、滅ぼされ、皆の前にも明らかにされたようにです。
友よ。切り倒されるのはあなた自身ではなく、あなたの肉の罪です。その目的は、悔い改めさせ(壊し・抜き…)「清い心を創造し、新しく確かな霊」(詩51・12)を建て、植えるためです。愛に富む聖い神の御手を信じて、抜かれ壊されることを受け取ってください。あなたは主の御形に再創造されるのですから!
6章6節 ①
わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。
神が求めているのは、奉仕や物品などを献げるいけにえ(自己犠牲)でも、罪祭や燔祭などの焼き尽くす献げ物(儀式)でもないと言います。神が人に求めているものは、神を知り、神を愛することです。
神は、内面的な命を目に見えるもので表すことがあります。とくに、命や愛は測ることも手で触れることもできませんから、行いや献げ物などによって表そうともします。しかし、いつしか外面が内面の命に置き換わってしまい易いものです。
聖餐式も、見える物で見えない主の愛と命を教えました。「最も大切なこととして…伝えたのは、キリストが、…わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと…三日目に復活したこと」(Ⅰコリ15章3~4節)を表すために、葡萄酒(十字架の血)とパン(復活の命)を用いました。しかし、聖餐式に与かっていれば救われているとなると間違います。
同じく、聖書を「読む」と「聴く」も違います。「読む」は自分が主体となり、「聴く」は主が主体となります。前者は、マルタのように主の心を自分で理解し、後者はマリアのように主の御心を聴こうとしています。
友よ。信仰において内面と外面、命と行動、現在と永遠、聞くと聴く、知識と知る(一体化)、の違いを見抜いてください。御霊の知恵をいただいて、主イエスの心を自分の心とできるように祈りましょう。
6章6節 ②
わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。
ホセア書六章は悔い改めを勧めますが、「お前は悔い改めよ」と言わず、「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれ…我々を打たれたが…主は我々をいかし…我々は御前で生きる…我々は主を知ろう…」(1~3)と、「我々」を多用していました。
この「我々」とは、罪の中にいたゴメルとホセアも含みますが、それ以上に罪人とイエス御自身のことです。ですから、「我々(罪人とイエス)を引き裂き、打たれた」お方は父なる神で、「我々を生かし(復活させ)、御前で神の子として生きる者にするのも父なる神です。主イエスこそ、人間のところに降りて来られて罪人と一体となり、罪人の罪を御自分の身に負い、罪の罰を支払って贖われたお方でした。
イザヤは、「病に苦しむこの人(人の罪を背負うイエス)を打ち砕こうと(十字架刑に)主は(父なる神は)望まれ」たと言いました。さらに、「彼(イエス)は自らの償いの献げ物とした(罪の代価を払った)。彼(イエス)は子孫が末永く続くのを見る(義人とされて永遠に生きるのを見る)」(イザ53章10節)と。
友よ。主は御自分をあなたと一体化させています。ですから、あなたが神にいけにえや焼き尽くす献げ物を献げるのではなく、神があなたに献げてくださった神の子羊イエスを受け取ること、それが神を知り、神を愛することです。
6章6節 ③
わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない。
「いけにえ・焼き尽くす献げ物」を捧げることの本質的意味は何だったのでしょうか。
中国で信仰のゆえに23年間労働改造所(労働と思想改造を目的とした刑務所)に居た主の僕が、解放後渡米し、説教を書き、短波で送る使命を与えられました。その僕曰く、「かつて自分が置かれた所は信仰がなければ生きられなかった。しかしこの国の神の子たちは、自分がもっと生きるために信じる」と。
レビ記は、最初に献身を表す「焼き尽くす献げ物」を記します。それは、「清くなければ神を見る(交わる)ことができない」から、一番重要なこととして記しました。献げる人が自分で牛や羊を引いてきて、その頭に手を置き、その動物を自らの手で殺しました(レビ一章参照)。この羊と牛は、自分自身のことです。献身とは、自分自身を殺すことになります。さらに、殺した動物は、五体全てを焼き尽くしました。
聖書で「罪祭」はキリストの十字架を「焼き尽くす献げ物」は自分の十字架を表していました。勿論、殺すとは「服従」のことです。キリストに服従して生きることこそ「我生きるにあらず、キリスト我が内に生きる」です。
友よ。主のあなたへの愛を、自分の思いや願いや都合を捨てて、全身全霊を傾けて受け取ることこそ、全き献身で自分を焼き尽くす献げ物とすることです。
6章10節
イスラエルの家に恐るべきことをわたしは見た。そこでエフライムは姦淫をし、イスラエルは自分を汚した。
預言者は、王や宗教家や民の気に入ることを語るためではなく、罪を暴き悔い改めさせるために立てられました。ホセアも命がけで語り続けました。
なぜ預言者の厳しい言葉が消されず、今も残っているのか不思議です。それは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタ24章35節)という神の言葉だからですが、それだけでもありません。
神の言葉であっても、それを真剣に受け止める人がいなければなりません。ホセアの時代は、ヤロブアム二世が四十年支配しました。その権力とそれにこびる宗教家たちをも恐れず、語られた言葉に命を捧げた人々がいたからこそ残ったのです。
厳しい言葉が残ったさらなる理由は、歴史の中で言葉が成就したからです。「神の言葉を受ける→語る→権力や体制に迫害される→しかし時至って実現した」というプロセスは、「事実は小説より奇なり」どころか、「神の言葉こそ事実なり」となったからです。
友よ。あなたが神のみことばを真剣に受け取るなら、あなたと家族や周りの人々にみことばが実現します。しかし、イスラエルのようにみことばをほどほどに聞くならば、あなたの中でみことばは消え失せます。命懸けで受け取った言葉がいつまでも必ず残るのは、神が必ずみことばの約束をあなたの人生に成就させてくださるからです。神の言葉が実現する日々を過ごしてください。