4章1節
主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ。
ホセア書の1章から3章までは、ホセアとゴメルの関係を通して神とイスラエルの姿を表わしました。4章からは、北イスラエルに対する直接の告発です。
「主の言葉を聞け」は強い命令です。愛は相手との同意により成り立つものなのに、なぜ一方的命令なのでしょうか。その理由は、
友よ。神は一方的専制君主ですか、それとも慈しみの父ですか。人が命じるのは他者を動かすためですが、神が命じたことに人が服従するとき、痛み苦しみ血を流すのは神御自身です。また、命じたことを実現に至らせるのも御自分です。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ロマ11章33節)。
4章2~3節
呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫…流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇きそこに住む者は皆、衰え果て野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される。
地球の中心は太陽、月の中心は地球、森羅万象には中心があって、中心によって保たれています。さらに、目に見えるものの中心には、見えない霊の世界が存在し、すべての中心は霊なる神です。
神が宇宙を創造したのは、人間を誕生させるためでした。「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地に這うすべてを支配させよう」(創1章26節)と言いました。
しかし、人が宇宙の中心ではなく、「つまり、万物は御子によって、御子のために造られ、すべては御子によって支えられています」(コロ2章16~17節)から、主イエスこそ、物理的、精神的、霊的な全ての中心です。太陽が無ければ地球は軌道を失い、主イエスを人生の中心から外すと、肉体も、心(知性・感情・意思)も、精神(霊)も狂い、家族、仕事、地域、世界が狂い、「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫…」へ進みます。そして、「この地は渇き…住む者は皆衰え…野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」が現実となります。
人生の家を建てている友よ。主イエスを「隅の親石」(Ⅰペト2章7節)に据えていますか。あなたという石の大きさや形状よりも、四隅の頭石なるお方こそ人生の「かなめ石」(同6節)でより大切です。主イエスあってのあなたであることを今日も覚えてください。
4章4節
しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ。
(口語訳)神の怒りは、民衆よりも祭司たちに向かっています。使徒ヤコブも、「わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになる…」と自戒しています。
しかし、聖書では「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師…」(Ⅰコリ12章28節)とあるように、教師の重要性も記しています。
神は旧約でもアブラハム、モーセ、ヨシュアを立て、新約に入ってからは十二使徒や多くの教師たちを立てました。しかし、教師が間違ってしまう時…もちろん神は目的を完成する方ですから別の人材を興すでしょうが…彼らに従っていた民は迷った羊になり、獣の餌食になったことを聖書は教えています。
その教師に必要なことは、能力や資格でもなく、主だけを見つめることです。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタ5章8節)の「清い」は、罪汚れがないことではなく、一心に神だけを見つめる人です。神を教える人が、自分に見えない神を教えることはできないからです。
友よ。あなたも「天国を学んだ学者」(マタ13章52節)ですから教師です。教師の資格は、神だけを見つめていることです。すると、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」(マタ10章19節)。
4章5節
昼、お前はつまずき、夜、預言者もお前と共につまずく。
信仰には「つまずき」が付きものです。勿論、神が人をつまずかせるのではなく、人が神につまずきます。
イスラエルの民は、神の奇跡によってエジプトから荒れ野に入りましたが、間もなく「水がない、パンがない、肉がない」と叫びました。しかし神は、「岩からの水」と「空からのパン(マナ)」を用意していました。本当は水やパンはあったのです。
この差は、神が与えようとしたものと、彼らが求めたものが違っていたからです。民が求めたのは、「エジプトの水とパン」で、神が用意したものは「岩からの水と天からのパン」でした。
神は民に、「昼つまずき…夜つまずく」と言います。それは昼夜が逆転し、「見えている(昼)のに、見えない(夜)」と言い、「見えていない(夜)のに、見える(昼)」と言い張ることです。「試練」は神が与える光(昼)なのに人は苦難(夜)と感じ、肉の欲の満足(夜)を恵み(昼)と、逆転して受け取ります。
友よ。神が与えたい水は、岩なるイエスから出、パンもイエスなる永遠の命です。それが見えるためには、「ともし火(真理)を、升の下や寝台の下」(マコ4章21節)という自分の考えに閉じ込めてはなりません。真理のともし火は「燭台の上」に置き、升も寝台も照らさせ、その光によってものごとの本質と実体を見てください。すると、つまずきは消えます。
4章6節
お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる。
イスラエルは、どの時代でも神信心に熱心な民族ですが、「知識を退け」「律法を忘れた」と言います。彼らは、律法を学ぶことも捨てたのでしょうか。
否、彼らは変わらず熱心ですが、本質を見失っていました。聖書は「知恵」と「知識」を分けて考えるとより見えてきます。「主を畏れることは知恵の初め」(箴1章7節)とあるように、「知恵」は神に関し、「知識」はこの世の情報や経験などです。「知識」は、「知恵」にコントロールされて正しい知識となります。
ゆえに、冒頭の「知識を退けた」は、神に関する「知恵」を退けた、とも理解できます。彼らの律法熱心は、神を知り神に従い隣人を愛するためよりも、自分を義とし、自分を救う行い信仰だったのでは。
知恵と知識を見分ける霊の目が必要です。教理、教会、奉仕、献金、伝道などは重要です。しかし、主イエス(知恵)に直結させコントロールされねば、「『我々は皆、知識を持っている』…ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛(知恵)は造り上げる」(Ⅰコリ8章1節)ただの知識(この世の知恵)となります。
聖書を読み教会に通う友よ。「論語読みの論語知らず」ならぬ、「律法読み(聖書)の律法(主イエス・愛)知らず」になっていませんか。教会やクリスチャン生活ではなく、主イエスを知ることを求めてください。
4章7~8節
彼らは勢いを増すにつれて…罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしている。
祭司たちは、「勢いを増すにつれて…罪を犯し」とある勢いとは、当時のヤロブアムⅡ世の時代の繁栄を指していると思われます。物質的繁栄は、偽りの安心感を与え、ものごとの判断を誤らせるものです。
繁栄という偶像が与える偽りの安心感は、自己義認へ導き、罪の基準を引き下げます。祭司たちは、この繁栄は自分たちの信仰熱心からと見せかけ、民は罪を責められないので、さらにお金に執着します。そのお金が回りに回って祭司へ還元していきます。
民は祭司の罪を利用し、祭司は民の罪を利用する罪の相乗効果は破たんまで進みます。彼らが神からの栄光と思っていた繁栄は、偶像になっていました。その偶像礼拝の報酬は、「恥」です。
バアル像や金の子牛のように形はありませんが、成功、富、権力、繁栄、性などは偶像になります。それらは気付きにくいだけに、さらなる繁栄(偶像)を求め続けさせます。その繁栄は、互いの罪を当てにして利用し合っているだけだと言います。
友よ。最近、あなたに勢いを増させているものはないですか。それが偶像にならないように注意してください。次の言葉、「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(ヤコ4章10節)に目を留めましょう。
4章9~10節
祭司も民も同じようだ。わたしは、彼らを行いに従って報いる。…彼らは淫行を続け、主を捨て、聞き従おうとしなかったからだ
イスラエルを悩ませていたのはバアル礼拝でした。バアルは「主」と呼ばれ、繁栄の神とされていました。
《バアル宗教の神話》
「バアル神は毎年死ぬ。夏の干ばつ、冬の凍結…しばらくバアルは黄泉に降る。そこで配偶者(アシュタロケ・アナテ・アシュラ)を見つけ、両者が性的交わりを持ち、その結果として雨が降り、太陽が輝き、作物が実り、地は産物を生み出す…」と。
ゆえにバアル礼拝は、「山々の頂きでいけにえをささげ、丘の上で香をたく。樫、ポプラ、テレビンの木陰(淫乱に耽る所)が快いからだ」(13節)と。ゆえに、参加者たちが神殿娼婦と交わり、バアルやアシュタロケの姿をまねることは罪ではなく、むしろ豊かな穀物を収穫できると信じます。しかし、これほど人の欲望と情欲を正当化させる偽りはありません。
バアルや仏像や教祖など見えるものと、愛や能力や金銭や成功や権力など、目に見えない人間の営みに必要不可欠なものまで、偶像は世界に満ちています。
友よ。バアル宗教の神話は今も続いています。これらを点検して気づいても、自分から離れることはできません。離れても別のものを掴んでいるだけです。偶像から離れるただ一つのことは、主イエスに継がり、交わることだけです。主から目を離さないでください。
4章13節
娘が…嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。親自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。悟りのない民は滅びる。
神はなおも、偶像礼拝を姦淫に例えて語ります。神にとって御自分の民は娘(神の子)であり嫁(キリストの花嫁)です。彼らの罪は、「親自身が遊女と」関係を持ち続けてきたからだと言います。その親とは、彼らの祭司や宗教家などの指導者たちです。
「人間」は、「人の間」で生きる者ですから、だれかとの一体を求めます。親との一体から少しずつ離れ、愛する者と一体となることを願います。
体や心は、親や伴侶や子供や隣人と継がり交わって満たされますが、「霊」は伴侶とも親子でも一体にはなれません。霊は、神とだけ一体となります。
主イエスは、十字架を前にし、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハ17章21節)と祈りました。この最後の祈りは、イエスにとって最も大事な祈りで、命の核心を表したものでした。
友よ。姦淫とは、「正しくない継がりと交わり」のことです。「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ」(ヤコ4章5節」るお方です。あなたは妬まれるほど神に愛されているのです。世の友となってはなりません。その人は神の敵となります(同4節参照)。主だけを愛してください。
4章19節
欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける
ホセア書の4章は、祭司たちへ向けての厳しいメッセージが続きました。彼らが主に責められていたことを以下の3つにまとめることができます。
しかし、信仰のことで祭司(指導者)の責任にはできません。神は人に自由意思を与え、祭司に従うも拒むも、その人の自由だったからです。信仰は、神と自分の関係だけになります。「もう一つの書物が開かれた。それは命の書です」(黙20章12節)。
偶像があったことも、、祭司が間違っていたことも事実です。しかし、本当の偶像は自分自身の中にいました。それは、「欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み」との「欲望の霊」とは、「肉」という欲望です。
友よ。人は自分が持つ命の質によって物事を取捨選択しています。「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません」(Ⅰコリ2章15節)。あなたが霊の人になる以外にありません。