キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第3章

3章1節 ①

主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け…、主がなお彼らを愛されるように。」

ホセアが神の言葉に従い得たのは、「神を信じたから」ですが、それだけで従うことは難しく、彼の中にも理由がなければできないものです。

ホセアは、「夫に愛されていながら姦淫する女」は、妻ゴメルになりますが、神に対する自分でもあると受け取ったのではないでしょうか。そうすると、妻ゴメルと自分は神の御前では同等の罪人になります。だれでも、相手を理解し受け入れることができのは、自分が同じ心と状況を体験せねばできません。

そして、「主がなお彼らを愛されたように」のみことばが、相手への思いをさらに強めます。ゴメルと自分は同じ罪を持つ者、その自分を愛して(赦して)くださっている神を深く知るほどに、怒りが同情に、憎しみがゴメルを愛する方向へ向かわせます。

主の祈りの、「我らに罪を犯す者を、我らがゆるしたように、我らの罪をもゆるしたまえ」は、「神よ、あなたが私の罪を赦してくださいましたから、あの人の罪を私もゆるします」です。

友よ。「自分がゴメルと気づいた者は幸いなり。しかし、あの人がゴメルだと気づく者は災いなり…」では! ホセアは姦淫によって三人もの子を産んだ妻を受け入れようとしています。あなたのゴメルは、ホセアのゴメルよりは小さいのでは?ないでしょうか

3章1節 ②

わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。」

ホセアがゴメルを愛せるのは、自分の罪がわかったことに、さらに一つ加えなければなりません。

カール・ヒルティ氏が、「許すことは忘れることである」と言いました。それは記憶から消されることではありません。許すとは、すでに痛みが伴っているので許す行為が必要なのですから、相手から受けた痛みが残っている以上、本当は許していないのです。彼の言葉の「忘れる」は、「痛みを忘れる」ことです

復活の主がトマスに現れ、「あなたの手を…脇腹に入れなさい」と言った時、主は「トマス、私はあなたの罪を赦します。だから私の手と脇腹はまだ痛んでいる」と言ったのであれば、相手がまだ痛みを持っている以上トマスは赦された実感を持てません。彼が本当に赦されたと信じられたのは、主イエスが「痛みを忘れて」しまったからです。

罪の赦しは十字架によりますが、十字架で止まっているならば赦しの確信は持てません。赦しは、復活あってこそ完成します。復活は、十字架の苦痛を超えさせます。あの痛みを受けたからこそトマスが救われた、という喜びで「痛みを忘れる」からです。

友よ。ホセアがゴメルを受け入れられたのは、彼が悩み苦しんだことで神による意味が与えられたからです。それは、この痛みによって、それまで以上により多く深く神を知り、交わりを持てたからです。

3章2節

そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。

ある人が、ホセア書三章の説教題を「再婚」としました。ゴメルとホセアの婚姻関係が完全に終わっていました。それは、「銀15シェケル…を払って買い取った」と記される言葉によってです。

当時、成人男子の値段は30シェケル(主イエスは銀30枚)、未成年男子は20シェケル(ヨセフが売られた値段)、女や奴隷は15シェケルでした。

「買い取った」の言葉は、完全に他人の所有権の中にあったことを表します。この世的に言えば、他の男の所有になっているゴメルの姿です。、霊的にはバアル神殿の娼婦であったとも言えます。

原罪といわれる未信者の時の罪も、夫を持った後に犯す姦淫の罪も、罪は代価を払わずに消されることはありません。主の十字架の血こそ、15シェケルや大麦などの代価そのものでした。「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです」(ヘブ9章22節)。

キリストの花嫁なる友よ。あなたがイエス以外を主とするなら、姦淫の罪を犯していることで、それは偶像礼拝でもあります。偶像礼拝は目に見えるもの見えないものさまざまあります。人間の愛でも、金銭でも、成功であっても、権力と栄光を求めることも、貪欲までも含めて偶像になります。主は全ての偶像から、御自分の血潮をもって「買い取って」、あなたを再び妻に迎えてくださいました。

3章3節

わたしは彼女に言った。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」

ゴメルと再婚?したホセアは、新たに自分の気持ちを妻に伝えたのが右の言葉です。

人は知識や修業を積んでも、命が変わらねば根本的変化はできません。人の命は「霊」であり、霊が変われば「心」が変わり、心が変われば「肉体」にも影響し、さらに周りの人々へと命が伝わって行きます。命の変化は、人格と人格の出会いによって可能です。

しかし、聖霊によって新しく神の子の命を得たとしても、聖霊に満たされなければ、「淫行せず、他の男に行かず、とどまり、一つとなり続ける(3節の要約)」聖い神の子として歩むことはできません。「霊の導きによって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させることはありません」(ガラ5章16節)。

さらに、聖霊の満たし(支配)は、一瞬に与えられる出来事ではなく、霊的成長と共に与えられます。霊の成長は、断食して祈ったからでも、知識を蓄えたからでもなく、「日々自分の十字架を負い」(マタ10章38節参照)主に従い続けてこそ実現します。

友よ。最初から聖く従順な花嫁には誰もなれません。「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい」(コロ3章1節)とあるように、求め続けることです。「求める者に聖霊を与えてくださる」主に祈り続けてください。

3章3~5節

長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。…その後、イスラエルの人々は帰って来て…主とその恵みに畏れをもって近づく。

神は、「わたしの元に長く留まり続けよ。そうするならば、長い歴史を過ぎてから、あなた方は帰って来てわたしに近づくことができる」と言います。

人が神のもとに留まり続けるには、最初に神の命を持たねばなりません。次に、聖霊によって歩むことを学ばねばなりません。受洗しても教会を離れてしまう人が多いのは、それがわからないからです。

霊によって生きるとは、自分の知恵や能力でなく、神の恵みによって歩むことです。それは、実生活の中の人間関係や出来事を、聖書の歴史とアブラハムなど登場する人物の生き様を自分に重ね合わせ、神からの直接のメッセージとして受け取ることです。

また、霊的知識を持つだけでなく、それを実践するとき、「言は肉となって、わたしたちの間に宿った」(ヨハ1章14節)ように、主イエスが自分の中で実在のお方となります。そして、「我生きるにあらず、主我が内に生きる」が実現します。

友よ。聖書の言葉があなたの命になるためには、「訓練と試練」を繰り返す長い時間が必要です。愛は一時の感情では育ちません。互いを強く結びつけるには、相手をより深く知る時間が必要です。主は、「わたしも…お前のもとにとどまる」と言われます。だから、あなたも主に畏れをもって近づいてください。

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