第11章1節
まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
ホセア書1章から3章までは、神とイスラエルをホセアとゴメルの夫婦関係に例えて語りました。ここ11章では、親子に例えて語ります。
夫婦と親子の愛はどちらが大きいか?はナンセンスな質問ですが、夫婦と親子の愛の質は確かに違います。親子愛は、「親は子を養い守り、子は親に従う」が相応しく、夫婦愛は、「互いに仕え合う」が当てはまります。そこから、夫婦愛は互いが対等の責任を負いますが、親子愛は親の方により責任がのしかかります。
神と人の愛の最初は、親子愛から始まります。それが、「幼かったイスラエルを愛し…エジプトから呼び出し」の言葉です。神はエジプト(罪とサタンなるパロに支配されたこの世)にモーセを遣わし、家の鴨居に小羊の血を塗る過ぎ越しにより解放しました。
モーセの導きに反抗するわがままな子イスラエルに、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(ロマ10章21節)と神は言います。これこそ、神が親であるゆえに、一方的に責任を負ってくださる「父なる神の愛」そのものです。
友よ。子は自分のことを知らず、親は子の全てを知っています。知らないのに知ったように振る舞うことが子の親に対する罪です。今一度、子(知らない)であることを自覚し、親(全てを知るお方)に信頼して委ねましょう。委ねたら、親の愛がわかります。
第11章3節
エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、わたしだ。しかし、わたしが彼らをいやしたことを彼らは知らなかった。
ここにも父なる神と人間との関係が記されています。慈しみ深い天の父は、子に食べさせ、支え、いやし、歩くことを教えてくださいます。
なぜ神は人を造られたのでしょうか。それは、神が父と御子と御霊の三位一体の神だからです。父は御子を愛し、御子は父に従いますが、いつまでもそのままの関係ではありません。愛された者には、次に愛する喜びが必要です。それを、「万物は御子によって、御子のために造られました」(コロ1章16節)が示します。
人間は、父に愛された御子イエスによって愛される存在として造られました。愛は、対等な人格と人格の応答で成立しますから、神は人を動物や玩具としてではなく、人格を持つ者として造りました。
だれでも「アバ父よ」(ロマ8章15節)と呼ぶことから信仰が始まります。すると神は、「腕を支え歩くことを教え」てくださいます。さらに、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになる」(マタ11章25節)お方です。
友よ。幼子が生きる知恵は、親を信頼し、親に教えられることです。同じく、人の中で知恵ある人とは、神に自分を委ねる人です。そして、さらに賢い人とは、さらに、さらに神を信頼し自分を委ねる人です。「アバ(父ちゃん)」と呼ぶ賢い人となってください。
第11章4節
わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた。
イザヤは、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。私は子らを育てて大きくした。しかし、彼らは私に背いた。牛は飼い主を知りろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、私の民は見分けない」(イザ1章2~3節)と預言しました。
牛やロバなどの動物は、神に造られたまま生きるので罪を犯しませんが人は罪を犯します。それは、自分で考え決断するように造られたからです。その神と正しい関係を持つには成長が必要です。
神は人を成長させるために、「人間の綱、愛のきずなで…導いた」と言います。その綱や愛のきずなは、モーセやヨシュアや預言者たちであり、使徒や聖霊に導かれた先人たちでした。霊の人々との継がりと交わりも、霊的成長に欠かすことはできません。
聖書は霊的成長を、親子愛から夫婦愛への変化で教えます。神を信じた時に「神の子」となりますが、後に「キリストの花嫁」と呼ばれます。子は、親の恵みや良いとこだけ受け取りますが、花嫁は喜びも悲しみ痛みも共有します。親子のきずなは親の一方通行ですが、夫婦のきずなは相合通行です。
友よ。いつまでも顎の軛を取り…食べさせてもらう「幼子」から、夫・キリストと一体とされた「キリストの花嫁」に成長したいものです。そして、花嫁のさらなる恵みは、神の子たちを産むことです。
第11章7節
わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも、助け起こされることは決してない。
神は親となり子供を養い育てますが、子である人間は背き続けます。そのような子について聖書は…、
「ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出し、…町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す」(申21章18~21節)。
親の厳しさに二通りあります。親の自己愛(自己中心)⇔ 子供への愛、目先の肉の命↕後々の永遠の命、自分の立場を守る↕子どもの立場を守る、見える出来事が大事 ⇔ 見えないが真理が大事…と分かれます。いずれにしても、前者は神を知らない親であり、後者は神を知り、神を相手に生きる親の姿です。
聖書は、この石打の刑のように、見えない事実を見える形で教えようとします。それは、絶対に逃れられない事実、「罪の価は死」についての教えです。厳し過ぎる仕打ちに見えますが、ここで石打の刑で殺さなくても、この息子は神の前に死ぬことになります。
友よ。人にわからないことを、神は明確に知っています。後の日に、「天(神)に向かって叫んでも、助け起こされない」ことがないように、今罪の恐ろしさを知ることが必要です。アッシリアの奴隷となって帰らなかった民の姿も、私たちへの愛の預言です。
第11章8 ①節
ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
厳しい言葉を重ね、民を責める神の本心がここに出ています。最初から別々のものが離されることに痛みはありまんが、一体となっていたものが離されることには大きな痛みが生じます。
神が人を創造したのは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、…彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハ17章21節)とあるように、三位一体の神の中に私たち一人一人を入れるためでした。
聖書は、神の三位一体の「3」を完全数とします。それに対し、罪人は常に試みられて人となるので、人の数字は「4」と言うことができます。40日40夜の断食、荒れ野の40年間…と切りがありません。
そこから、聖書全体の完全数は、「7と12」です。7日間の天地創造、12部族、12使徒、1週間は7日、1年は12か月とこれも切りがありません。7と12は、神(3)と人(4)が足された「7」、かけられた「12」です。7×7=49はヨベル(解放)の年です。神は、人と一つになってこそ、「完全な愛」を保つことになります。
神の愛の中にいる友よ。神は、7と12を崩すことができません。だから、愛する御子イエスを十字架で一時見捨てねばなりませんでした。愛が裂かれる叫びが、「我が神、我が神、私を…お見捨てに…」です。
第11章8 ②節
アドマのようにお前を見捨て、ツェボイムのようにすることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる。
アドマやツェボイムとは、ソドムやゴモラと共に焼き滅ぼされた所でした。悪の主犯はソドムやゴモラであり、アドマやツェボイムではなかったが滅ぼさねばならなかった、との神の迷う心が聞こえます。
愛は、単なる平和や喜びだけではなく、アガペーの愛に近づくほど痛み悲しみが伴います。遠くで起きた見ず知らずの人の不幸に同情できても、愛を与えることはできません。その人は自分と一体でないからです。しかし、伴侶や子どもであれば、痛み悲しまねばなりません。なぜなら、一体(愛・命)だからです。
主がゲッセマネの園で、「この杯を取り去ってください」と言った杯こそ、罪を負い、罪人となるゆえに、父なる神から引き裂かれる苦痛と恐れでした。
同じく、一人の魂が三位一体の神から離されることは、愛そのお方である神には、「激しく心動かされ、憐みに胸が焼かれる」ことになります。イスラエルは神には「子」であり「一体」です。しかし、人はその痛みを知らないので平気でいられます。
友よ。ある人が、「愛は…痛みだ・悲しみだ・苦痛だ…」、だから「愛は…喜びだ・感謝だ・命だ…」と言いました。神の厳しい断罪、それをアッシリアへの奴隷、バビロン捕囚として成就させねばならない痛み、それらすべてが集約されたのが、主の十字架です。
第11章9節 ①
わたしは、もはや怒りに燃えることなく…再び滅ぼすことはしない。わたしは神であり、人間ではない。
「神は愛です」こそ、聖書の核心であり、ヤーヴェ・エロヒーム(主なる神)を理解するすべてのカギです。
神が人の罪を厳しく断罪するのは、神は愛だからです。愛と命は同じです。愛や命は、一個人の中には存在できず、人格と人格の継がりと交わりの中にあります。それを壊すのが罪です。罪とは愛への裏切りです。なぜなら、愛と命を破壊するからです。
愛なる神だから罪を裁きますが、「怒りに燃えることなく、滅ぼすことはしない」とも言います。「罪を罰するが、怒らず滅ぼさない」に矛盾があるのでしょうか。否、神に矛盾はありません。それこそ、「わたしは神であって人ではない」がその答えです。そのことは、「わたしは愛であり、自己中心ではない」とも言えます。
神が怒りを人に向けるならば、神はアガペー(絶対愛・自己犠牲愛)ではなく、エロース(価値追及愛・男女愛)の神になります。エロースは自己中心で、アガペーは相手のために自己犠牲を喜びます。
友よ。怒り罰する神が、怒りに燃えず滅ぼさないのには、ただ一つの方法しかありません。それは、「相手の罪を御自分が引き受け、自分を罰する」ことです。だから神は愛なるお方です。「神が御子を世(あなた)に遣わされたのは、世(あなた)を裁くためではなく、御子によって世(あなた)が救われるためである」(ヨハ3章17節)。
第11章9節 ②
私は、もはや怒りに燃えることなく…再び滅ぼすことはしない。私は神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。
神の御性質は、「愛」・「義と聖」・「永遠」です。神の厳しい断罪の言葉は、神が「義と聖」だからです。
神の愛は、人間の持つ寛容や赦しとは根本的に違います。神の愛は、「義と聖」を満たした「愛」です。ですから神の愛には厳しさがあります。
ダビデの子アブサロムが父ダビデに反逆し、父をエルサレムから追い出し辱めました。体制を立て直した父ダビデの軍は、ヨアブを将に反撃します。戦いの最中、頭を木にひっかけて身動きできないアブサロムをヨアブが殺し、この反乱は終息しました。
この報を受けたダビデは、「私の息子アブサロムよ。私がお前に代わって死ねばよかった」と泣きます。彼は、息子の反逆の罪を忘れ、義のない愛に走りました。
それを見た将軍ヨアブは、「あなたを憎む者(息子)を愛し、あなたを愛する者(自分)を憎まれるのですか」と詰め寄りました。彼はダビデよりも正常な判断をしているようですが、愛のない義に走ってしまっていました(サム下18~19章参照)。
友よ。罪人には「義」と「愛」を一致させることはできませんが、神にはできました。人の罪を御自分が身代わりとなって裁きを受けて義を満たし、そのうえで人の罪を赦したイエスの十字架こそ、義と愛が一つとなるところです。神は義であり、愛なるお方です。
第11章10節
獅子のようにほえる主に彼らは従う。主がその声をあげるとき…子らは海のかなたから恐れつつやって来る。
罪人に御自分の義と愛を与えることがお出来になる神ですが、それを自動的にすべての人に与えるのではありません。神は、人にそれを与えるために「獅子のようにほえる」お方だと言います。
神は、最初に預言者たちを用い、罪を指摘し悔い改めるように吠えます。それでも人々が従わない時の次の吠え叫びは、苦難に直面させることです。それがアッスリアの来襲による奴隷と移住です。
聖書から、「ゲヘナ(第二の死・火と硫黄の池)」黙20章6~10節参)と「ハデス(金持ちが行った所)」(ルカ16章19~31節参照)があることがわかります。金持ちに宗教はありましたが神への信仰はなかったので、アブラハムの懐に行けずハデスに落とされました。
しかし、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」(Ⅰペト3章18~22節参照)と、主はそこにも行かれました。
神の叫びの声を聞いている友よ。神の目的は、「一人も滅びないで永遠の命を得る」ことです。神は、みことばによって吠え、肉の思いを挫く障害物を備えて吠えます。そしてさらに、ハデスやアッスリアにまで連れて行き、そこで吠えます。人が主の吠え叫びを聞いて、そこから畏れつつ帰ってくるためです。
第11章11節
彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリアの地から。わたしは彼らをおのおのの家に住まわせる、と主は言われる。
三位一体の神は、民が小鳥のようにエジプトやアッシリアから飛んで来るのを待ちわびています。ちょうど、放蕩息子を待つ父親のようです。
神の子たちが帰るのを待つ天の父の心は、不安で一杯に違いありません。人々を帰らせようと預言者たちをもって厳しい断罪の言葉を語り、さらに諸々の試練を与えねばならなかったからです。
病気や災難、欠乏や悲しい人間関係など、それら自体は神御自身が与えるものではなく、罪の中では当然起こる出来事です。神は、それらを取り除くことができても、それを通さずに罪人を悔い改めさせることができないので、見て見ぬ振りをせねばなりません。
人がそれらの出来事に直面し、神に向くと試練となり、神以外のものに向くと誘惑となります。試練は人を神に近づけ、誘惑は神から離します。神は、試練をして受け止めて自分に近づいて来るか、受け止め切れず離れて行くか、心を痛めながら待っています。
友よ。神はあなたに対して厳しいですか。しかし、「死んだ者にも福音が告げ知らされるのは、彼らが、人間的な見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(Ⅰペト4章6節)が神の心です。神の厳しは愛の厳しさで、あなたに必要なものです。