キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第10章

10章1節

イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木である。その実を多く結ぶにしたがって、祭壇を増し、その地の豊かなるにしたがって、柱の像を麗しくした。

口語訳

ホセア書の9章は王を間違う罪を指摘しました。10章に入っても罪の告発は続きますが、ここでは賜物と所有物を間違っている罪について語ります。

エジプトから導き出されて300年後に、ダビデ王が現れ強い国となりました。この民は、ぶどうの幹に一番近くて太い枝となり、そこから全世界に枝分かれする選民(証し人)の責務を担っていました。

事実、豊かな実を結びましたが、実が多くなるほどに、彼らの関心は「幹」である神との「繋がり」よりも、神の恵みである「実」に移りました。

主は、「わたしはぶどうの木、あなた方は枝である」と言われました。ところで、枝にとって豊かに実を結ぶことと、幹に繋がることとどちらが大切でしょうか。勿論、幹にしっかりと繋がり続けることです。しかし、人の関心は実を結びそれを大きくすることです。

そうすると、実が目的になり、幹(主)が手段になり下がります。「実を多く結ぶにしたがって、祭壇を…柱の像を…」との冒頭の言葉はまさにこのことです。

友よ。例えば、家族が救われた実があっても、幹(主)との繋がりが細い人がいます。家族がまだ救われず実がないので祈りを絶えせず、幹とより太く繋がる人がいます。あなたの信仰生活はどちらですか。できれば、幹と太く繋がって実を結ぶ人になってください。

10章3節

今、彼らは言う。「我々には王がいなくなった。主を畏れ敬わなかったからだ。だが王がいたとしても、何になろうか」と。

ホセアは2節で、「彼らの偽る心は…罰せられる」と言ったその心が右の彼らの告白です。それは、「我々の神はいなくなった。それは私たちが信じなかったからだ。でも神がいても何になろう」と解釈できます。

苦難に出会い熱心に神を求めた当初、心は神がいるという事実に感動しました。しかし、信仰生活が長くなるほどに信仰は冷め、「神は信じるが、この問題は神に頼むより自分の力で何とかせねば」となります。さらに開き直り、「神はいるでしょう。しかし、私のような不熱心な者など心にとめてはくれない」とも。

「冷めた信仰」はどこから出たのでしょうか。受洗までは、本人も教会も熱意にあふれていたのに、時が経つと本人が抱えた問題も小さくなり、教会の関心も魂から奉仕へ移って行きます。

「神の子」になった者は、救われたところにとどまらず、「神の子として生きる」ことを学ばねばなりません。それには霊的な知識を教えられねばなりません。

友よ。あなたの信仰は熱いですか、それとも冷めていますか。あなたは「生きたみことば」を聞かねばなりません。それらは、聖霊に支配された「生きた霊の人」を通して語られるものです。神は、多くの霊の器を歴史の中にも現在も備えています。神の中で生きるために、そのような人を求め出会ってください。

10章5節

サマリアの住民は、ベト・アベンの子牛のためにおびえ、民はそのために嘆き悲しむ。神官たちがその栄光をたたえても、それは彼らから取り去られる。

「ベト・アベン」の地は、民がヨルダン川を渡ってエリコを陥落させ、その勢いでアイ攻略にかかりました。しかし、エリコ陥落により傲慢になり、小さな町アイに敗れた場所こそベト・アベンでした。

2節に、「彼らの偽る心」とありますが、自分が偽っていると分かる時はまだ正常ですが、それを見失うと自己義認になり、偽善者へと進みます。そして、このような自己欺瞞は、失敗した時ではなく、実を結んで順調に事が進んでいるときに犯す罪です。

ヤロブアム王治世の年月は、平和と繁栄を享受していました。しかし、彼らの信仰による祝福ではないのに、平和と繁栄という実がありました。それが、彼らの霊の目を閉ざし、偶像礼拝の罪を責められても、それに応えて悔い改めようとしませんでした。 

アベンでの敗北は、エリコでの勝利という神の恵みの「賜物・御業」を、自分の「所有物」にしてしまった結果でした。これも、「実」と、実を結ばせた「幹(神)」の優先順位を間違ったのと同じです。

友よ。「時をよく用いなさい」(エフェ5章16節)とあります。それは、原語から、「機会を買い占めなさい」の意だとも聞きました。ある出来事の一点、それを霊の世界で理解せねば、首尾よく行ったことほど愚かを演出します。神の恵みを正しく買い占めてください。

10章8~10節

アベンの聖なる高台、このイスラエルの罪は破壊され。…イスラエルよ、ギブアの日々以来、お前は罪を犯し続けている。…二つの悪のゆえに彼らを捕らえる。

神は、特に「アベンの高台」と「ギブアの日」の罪を重要と考えています。この二つの大罪のために、毒草が生え(4節)おびえ(5節)運び去られ(6節)泡のようになる(7節)と言います。

「アベンの高台」は、エリコの勝利を自分の力のようにしてしまった高慢でした。この高慢が小さな町アイの敗北につながりました。「ギブアの日」は、神を主として歩むことから、神の代わりになる人を王として要求し、サウルがサムエルに油注がれた場所でした。

「神を神としないゆえに人が高慢になり、人が高慢になるゆえに神を神としない」は表裏一体で最も大きな罪となります。そこに神は働けず、毒麦・おびえ・運び去られる・泡など、空しいものが支配します。

神は、「わたしがアブラハムを選んだのは、…約束したことを成就させるためである」(創18章19節)と言いました。神は御自分の愛、力、恵みを与えることのできる人を捜しています。神がそのような人を見つけるとき、その人のためになんでもしてくださいます。

友よ。ある本に、「神は、ご自身の最善のものを、あえて試練に耐える少数者に備えられる。神は、ご自身の次善のものを、最善のものを受けたいと思わぬ者に備えられる」とありました。常に最善のものを受けるために、今日も「イエスを主」としてください。

10章11節

エフライムは飼い馴らされた雌の子牛、わたしは彼女に脱穀させるのを好んだ。わたしはその美しい首の傍らに来た。エフライムに働く支度をさせよう。ユダは耕し、ヤコブは鋤を引く。

厳しい断罪の中で上のみことばに接し、神の本心を垣間見ることができ心が和みます。

冒頭のみことばの特徴は、神が主導権を取り御自分の民と良い関係を持っていることです。神の民も、神の主権と指示に信頼し切って自分の分を果たしています。ここでは、エフライムもユダも一つです。まさに、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分です」(Ⅰコリ12章27節)を見る思いです。

キリストの体にとり、「キリストが教会の頭である(エフェ5章23節)ことが最も重要です。「頭」が基準であり命です。キリストの体は教会を指し、神の家族として互いに愛し合うように勧められています。しかしこの愛は、「互いに相手に仕え合う」ことによってではなく、「互いが主に仕える」ことが優先されるところに作られます。一致は、人の話し合いによってではなく、聖霊により作られます(エフェ4章3節参照)。

神に愛される友よ。あなたのキリストの体(教会)はどうですか。互いに仕え合うことを考えると不一致が起こります。互いが相手よりも主に仕えようとすると、相手を愛したくなります。「まず、神の国(支配)と神の義(神との正しい関係)を求めよ」が優先です。頭なるキリストから必要の全てが下ってきます。

10章12節

恵みの業をもたらす種を蒔け、愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて恵みの雨を注いでくださるように。

恵みの種を蒔き、刈り取るのは愛です。さらに新田を耕し、もっと命の種を蒔き、さらに豊かに刈り取りのも愛です。主を求める者を神は忘れていません。神は必ず来て、恵みの雨を注いでくださいます。

これこそ、神がエデンの園を造った目的でした。人が罪を犯す前のエデンを、後に回復されるエデンから知ることができます。そこは、「川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に12回実を結び、その木の葉は諸国の民の病を治す」(黙22章)と記されています。

神は、人を御自分の形(神と同じ命を持つ者)に、型どって(三位一体の神の姿・神と人が愛し合い、人と人が愛し合う)造りました。神は、この恵みを最初にイスラエルに与え、そこから今日のクリスチャンへ、そしてすべての人に与えたいと切望しています。

この恵みが完全に実現するのは、肉体を脱ぎ、霊の体に変えられてからですが、地上でもいただけます。天国とは、「私はその中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。…神の小羊が都のあかりだからである」(同21章22~23節)。

友よ。父なる神と御子イエスと聖霊との交わりこそが、豊かな実りであり天国です。

10章13節

ところがお前たちは悪を耕し、不正を刈り入れ、欺きの実を食べた。自分の力と勇士の数を頼りにしたのだ。

ホセア書10章は、神の賜物を自分の所有物にすることを警告しています。ここでも、「悪を耕し…自分の力と勇士の数を頼る」と警告します。

聖書は、聖霊の「賜物と実」について記します。使徒、預言、いやし、知恵や知識、それに物質的な恵みなどは神の「賜物」であり人の所有物ではありません。それは、預かり物であり「命」に仕えるためです。

愛、喜び、平和…などの御霊の「実」は、その人に備えられるキリストの品性(命と命の質)です。賜物は品性を作るための手段で、目的にしてはなりません。 

ある人曰く、「聖霊の賜物については『求めよ』とあるが、聖霊の実・愛については『…ない。…せず』によって作られる」と。確かに、賜物については、「…霊的な賜物…を求めなさい」(Ⅰコリ14章1・12節)とあります。一方、聖霊の実については、「愛は忍耐深い…情け深い、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めない、いら立たず、恨みを抱かない、不義を喜ばない…」(同13章4~7節)とあります。

友よ。愛という実を結ぶのに否定形が使われるのは、御霊の実は既に内住の聖霊の中にすべて完成しているからです。それが出てこないのは、「私」という自我が邪魔しているからです。聖霊の賜物は上から与えられ、御霊の実は内側(内住の御霊から)から出てきます。愛は、自分の肉を失うことで得るものです。

10章15節

ベテルよ、お前たちの甚だしい悪のゆえに、同じことがお前にも起こる。夜明けと共にイスラエルの王は必ず断たれる。

預言者は、選民イスラエルに遣わされました。だから、選民でない日本は関係ないとはなりません。預言者は選民イスラエル(証し人)に、そして選民の歴史と出来事は日本への神の預言となります。

そこから、選民が真の神を神とせず、繁栄を神とした結果、アッシリアの奴隷にされたことは、日本も同じ道を辿ることになります。今の日本の豊かさを、自分たちの所有物にする罪を犯し続けてはなりません。賜物は、第一に自分の本当の命を得て保つためです。次に、隣人を愛するためです。

「自分の持ち物を売り払って施しなさい。…尽きることのない富を天に蓄えなさい。…あなたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12章33~34節)。ここで、「自分の持ち物を売り払う」とは、「尽きることのない富(永遠の命、他者への愛)」を得るために、自分が持つ能力や時間やお金など、神から与えられた賜物を使う(売り払う)ことです。

友よ。日本は物質的豊かさを神の賜物とは思わず自分の所有物とし、その所有物をさらに増やすために神の賜物を使って(売って)います。その結果、イスラエルがアッシリアのバアル(豊穣の神)の奴隷となり命を失ったように、永遠の命を失う民族にならねばなりません。日本の救いを祈り求めましょう。

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