キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第6章

6章2節

神の子らは、人の娘たちが…美しいのを見て…好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

ここに、「神の子」と「人の娘」が対比的に記されています。これをクリスチャンとノンクリスチャンとして当てはめてはどうでしょう。「だれを好きになるのも自由ではないか」と言いますが、「だれを好むかはその人の価値観(いのち)を最もよく表す」とも言えます。神の子は、自分と同じいのちを持つ神の娘(子)に魅力を感じるのは自然なことです。

神の子は、父の御心を聞いて行動すべきですが、前記の神の子たちは、自分の「好み」で妻を選びました。これは、若い男性クリスチャンが、自分の好みで主を信じない女性を妻にした、とも受け取れます。すると、生まれる子は、妻が持つ価値観の影響を受け、世を愛し、神を信じることが難しくなります。

その結果、子孫が神を信じないので、「わたしの霊は、永久には人の内にとどまらない」(同3節)ことになり、結婚によって神の祝福が途絶えてしまいます。

霊の人は神の子を生みますが、肉の人から神の子は誕生できません。主に導かれる結婚の大切さを知ります。同じく、伴侶の救いも重要です。家族の救いのために今日も祈り続けましょう。

6章4節

ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

ダビデの時代にいた身長2m半ほどの巨人ゴリヤテは、ネフィリムの子孫だと言われます(民数記13章33節参照)。このネフィリム(英雄・勇士・巨人)は、実在の人物というより、人々の恐怖が作り上げた架空の人物?との説もありますが、真実はわかりません。

ネフィリムは、「落ちる、倒れる」から出た言葉で、神に反逆する人々の指導者たち?とも思えます。近代では、ヒットラー、スターリン、毛沢東…などの大巨人が人々を恐れさせました。彼らは、「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができた」(同4節)不安な頃に存在していました。

人は、だれかに頼らねば生きていけないので、自分を救い、守る人を求めます。神など頼らず自力で生きる、という人でも、だれか、何か、に依存しています。神以外のものを神(偶像)とすると、それはネフィリムになります。

歴史に多くの独裁者が登場しましたが、彼らは独裁者を利用する人々に作り上げられた偶像でもありました。そして、作り上げ利用した人々は、偶像に飲まれ奴隷にされました。英雄や勇士(世の成功者たち)に目を奪われてはなりません。主だけが王の王です。

6章5節

主は地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけにかたむくのをご覧になった。  

神が人の生き方を見て「悪い」と判断されたとき、人は「良い」と思い、人が自分で「悪い」と思うとき、神は「良い」と見ておられるかもしれません。ノアの洪水前の人々は、「食い、飲み、めとり、嫁ぎ」などを喜び、平和で良い時代だと思っていたことでしょう。

人は、自分の思い通りになると有頂天になりますが、神は憂えておられます。世でも教会でも、皆が「良い」というときは注意が必要です。なぜなら、人の考えは本来「自己中心」ですから、皆が良いと賛同することは、「自己中心の最大公約数」になっている場合があるからです。むしろ、少数意見が神の御心に適うことが聖書には数多く出てきます。

ノア・アブラハム・モーセ・エリヤ…、彼らは少数どころか一人でした。「滅びに至る門は大きく、その道は広い…いのちに至る門は小さく、その道は狭い」(マタイ7章13~14節)と語った主の言葉を忘れてはなりません。

愛する友よ。恐れず、人々でなく神が良いとされる道を選択しましょう。今日の一つ一つの判断が、主への正しい服従でありますように。

6章7節

「わたしが創造した人を地の面からぬぐい去ろう。…わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

(口語訳)

「はなはだ良かった」世界に、悪が増大し、止められません。それを見た神は、「悔いる」(口語訳)と言われました。全能の神のお考えと行動が失敗だった、と言うのでしょうか。

悔いるとは、「息を吐く」の意で、神の悲しみ、嘆きの溜息です。それは、やがて人を地の面から消し去らねばならないからです。

後に神は、偶像礼拝する民を救うために、彼らをバビロンの捕囚にします。そのことを預言者エレミヤは、神が「わざわいではなくて、平安を与える計画」(エレ29章11節)を立てたのだと語りました。神の御計画は、新しいものを建てるために古いものを壊すことでした。偶像礼拝する人々の心を滅ぼし、神を信じる新しい心を植えつけようとします。

意気消沈する友よ。だから、神が与える試練、悲しみ、孤独から逃げず、涙を流しながらでも全力で神にしがみついてください。「神のみこころに添った悲しみ」を受け取るなら、神はあなたに「悔いのない、救いに至らせる」(Ⅱコリ7章10節)と約束されたみことばを成就されます。主にしがみつき離してはなりません。

6章9節

ノアは、正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。ノアは神と共に歩んだ。

「全き人」とは、罪や欠点のない人のことではありません。「もし、罪はないというなら…真理は私たちの内にありません」(Ⅰヨハネ1章8節)。全きとは、「二枚舌や虚飾」の反対、「すなお・飾らず」などの意味です。

すると、ノア以外の人々は二枚舌を使い、自分を飾り偽って生きていたことになります。このような人々には、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」(マタイ24章38節)が一番大事なことになります。全き人は、自分の心の貧しさにおののき、罪に悲しみ、柔和でない自分に泣き、義(ただ)しくあることに渇きを覚え、不純なので清くなることを神に求めます(5章1~8節参照)。

ノアが「正しく・全き人」になれた理由の一つは、父レメクが神なき暴虐の世を悲しみ、自分の子にノア(慰め)と名付けるほど、神に慰めを求めたからです(5章29節)。その親に育まれたノアも、霊の貧しさや罪の悲しみを覚え、神に求めました。

友よ。正しく全き人とは、嘘も、ごまかしも、迷惑もかけないなどで、世間的に清く見える人のことではなく、神の前で「悲しみ、泣き、叫び、訴える者」のことです。神はその人とともに歩んでくださいます。

6章12節

神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していた。

ノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲食に現(うつつ)を抜かしていました。彼ら皆、自分が堕落しているとは思っていません。なぜなら、「みんな」がそうしていたからです。

クリスチャンと教会が堕落している、と本気で考える人はいるでしょうか。キリスト教会と神学校に自由主義神学が入り込み、「人から見た神」について教えるようになりました。

その信仰は、人の理解と経験を超えない範囲のものです。彼らは、「あなたが、処女降誕や復活を信じたければ信じなさい。でも、古代の文献を研究し、史実を分析した結果…処女降誕や復活にはこのような考え方もあります…(曖昧にする)」と言います。これは、「人から見た神」の解釈ですが、それが堕落だとはだれも気づきません。

聖書信仰とは、「神が地をご覧になった」そのことを信じることです。それは、「人が見た神」でなく「神が見た人」についての教えです。当時の人々は、「自分が考えた神」を信じていましたが、ノアだけが「神が見た自分と世界」を信じました。そして、彼だけが神の御心、裁きの到来を察知できました。

彼は、世ではなく、神に自分を合わせました。「神が見たわたし」こそ大事です。

6章13節

全ての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。…わたしは、彼らを地と共に滅ぼそうとしている。

雲を見て雷に備える人と、稲光と大きな音の後で雷に気づく人がいます。世の終わりについても、事前に知って備える人と、主のさばきの御座の前に立ってから、「もう裁きの時が始まったのか」と慌てる人がいます。

神の裁きは、「全ての肉なるもの」に向けられます。「肉なる」とは、まだ神に受け入れられる状態にない者のことで、ここでは救われていない魂を指します。アダムの系図から、キリストの系図に入ってない人々が、「終わり」の時を迎えねばなりません。さらに進んで、クリスチャンとされた者には、「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけて」(ガラ5章24節)の勧めにも心を留める必要があります。それは、私たちは聖いキリストの花嫁となる身だからです。

聖書は、神が御自分の御心と将来に起こることを教える書です。ノアの洪水物語こそ、「全世界」と「私自身」に必ず起こることの啓示です。ノアの時代から今日まで、裁きの印の雲は現れ続けています。

今日も雲を見てへりくだり、主から与えられた立場で神と人に仕えましょう。

6章14~15節

箱舟を造りなさい…長さは三百キュビット…その高さは三十キュビット…。

ノアの箱舟物語は、イエス・キリストと教会による人類救済の啓示です。神は、イエス・キリスト(ノア)によって、教会(箱舟)を造り、そこに人々を招き入れ(救い)、洪水(裁き)から救おうとしておられます。

箱舟のサイズは、長さ約130m・幅22m・高さ13mで、現在の1万5千トン級の船になるそうです。当時は、超巨大構造物です。舟のサイズは、「全世界の人々を受け入れ救う」ことができる啓示でもあります。

教会はイエスを主と告白する人々の集まりで、主御自身によってつくられました。ノアは「義の宣教者」(Ⅱペテロ2章5節)ですから、人々に箱舟に入るように勧めました。

だれでもこの箱舟に招かれていますが、入る条件はただ一つ、「信仰の告白」(ロマ10章9・10節)です。ノアなるイエスが、救いに必要なすべてを整えました。それを「恵み」といい、恵みを受け取ることが「信仰」です。現在この舟の乗船定員はまだ満たされていません。とくに、「日本人専用室」は99%空室です。

友よ。この部屋の満たし・日本人のリバイバルのためにもっと祈りましょう。

6章14節 ①

あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。

神はノアに、「自分のために…箱舟を造れ」と命じました。ここに信仰の原則を見ます。神と人の関係は、「あなた」と「私」の「契約」です。契約は、独立した意思(自由意志)を持つ二人が一つのことをしようとするから必要です。人と動物には必要ありません。

愛は、甘くも曖昧でもありません。愛は、いのちです。いのちには常に「生」と「死」の戦いがあります。「死」に勝利してこその「生」です。信仰は神任せであると同時に、最も厳しく私個人の責任が問われる契約です。

預言者エゼキエルは、民の曖昧な信仰態度に接し、「たとい、そこにノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分…のいのちを救い出すだけだ」(エゼ14章14節)と告げました。さらに、「彼らは決して自分の息子も娘も救い出すことができない。ただ彼ら自身だけが救い出される」(同16節)とも。

家族伝道は、自分自身への伝道です。自分の救いの確立が家族を箱舟に招きます。

友よ。あなたにも家族を箱舟に入れる、「ノアの働き」が求められています。まず自分が先に入り、そこから家族を舟(神の国)に引き入れてください。

6章14節 ②

ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。…内と外とを木の脂(やに)で塗りなさい。

当時の造船技術がどれ程あったかわかりませんが、ゴフェルの木(ゴム科)に傷をつけて「脂=樹液」を採り出し、船体の木と木の間に塗って水漏れを防いだようです。

この「脂」から、「贖い(あがない)」の言葉がでてきたと考えられています。舟の外は荒れ狂う洪水ですが、内には静かな平和があります。舟の外と内は、「裁きと救い」、「死といのち」の別世界です。

木の傷から採った「脂」こそ、救いと裁き、いのちと死を分ける分水嶺でした。「脂」から「贖い」の言葉が作られたことに納得できます。

この脂は、出エジプトの過ぎ越しの時、家のかも居に塗られた子羊の血・主イエスの十字架の血を示します。あの時、この血を塗った家は裁きを過ぎ越しました。それは、子羊が、信じた者の罪の代価となったからです。「キリストは、私たちにとって神の知恵となり、また、義と聖めと贖いとになられました」(Ⅰコリ1章30節)。

今日もキリストの箱舟(血・贖いとられた教会)から出てはなりません。キリストの血だけが、「罪・サタン・肉・この世・死」からあなたを守ります。

6章17節

わたしは今、いのちの息あるすべての肉なるものを…滅ぼすために、地上の大水、大洪水を起こそうとしている。

ノアの洪水は、信仰告白としての水の洗礼(Ⅰペテロ3章20~21節)と共に、「いのちの息ある(神の子)すべての肉なるもの」を滅ぼす「聖別」(ガラ5章24節)についても教えます。

「水・洪水」は、肉の息を窒息させます。洪水は、霊を生かすために肉を殺す試練(悲しみ・苦難・痛み…)も指します。

預言者ヨナは、神に逆らい指示されたニネベと反対方向へ逃げますが大嵐に捕まり、海中に自分を投げ入れさせます。彼は、人々から海に投げ込まれた、というよりも自ら海(洪水・試練)を受け入れました。

しかし、神は魚(イエス)にヨナを飲み込ませて守りました。生きる限りさまざまの試練の嵐が襲ってきますが、嵐から逃げる者に聖別(肉の死)はきません。ヨナのように嵐(試練)を主から受けとる者の肉が十字架で終息します。その者がヨナと共に、「救いは主のものです」(ヨナ2章9節)と叫びます。

愛する友よ。今日も追いかけてくる嵐(困難、失敗、悲しみ…)から逃げず、主から受け取りましょう。嵐の中には闇の帝王ではなく、魚(主イエス)があなたを待っています。

6章18節

わたしは、あなたと契約を結ぼう。あなたは…(家族)といっしょに箱舟に入りなさい。

ノアが神に従うためには、家族にも多大な犠牲を強いることになります。仮に、「それで人の齢は、百二十年…」(3節)を、「洪水まで百二十年」とするならば、実に長い年月、箱舟造りに時間とエネルギーを費やしました。家族を巻き込まないではできません。

だれの人生にも犠牲が必要ですが、それに意味あるものとそうでないものがあります。一生かけて意味ある犠牲とは何でしょうか。ノアが、「箱舟を造れ」との言葉に生涯を賭けたのは、「家族の救いのため」(ヘブル11章7節)でもありました。それは、神を愛し、隣人(家族)を愛するためです。人の生き甲斐とやり抜く力は、「神と人(隣人)の両方のため」でなければ湧いてこないものです。

ノアは、「あなたの息子たち、あなたの妻、それに息子たちの妻と一緒に入れ」と言われた時、どんなに嬉しかったでしょう。彼は、長年の服従と多大な犠牲の報酬として、家族の救いを得ました。

忍耐の友よ。あなたは家族の救いを諦めていませんか。120年後(神の御心の時)だとしても、家族の救いを信じて祈る生涯の仕事から離れないでください

6章22節

ノアは、全て神が命じられたとおりにし、そのように行った。

天地が神に創造され・大洪水が発生し・箱舟によって救われ・神が人となるため乙女より生まれ・神が十字架で殺され・死から復活し・天に帰り…など、どれもこれも人間の理性や能力や経験では理解できません。

神は、現代の私たちにも箱舟を造るように言われます。それは、「神の言葉に日々従って生きる」ことです。そこには不信との戦いがありますが、神を信じて従う結果、「しかし神は…実現されました」(使徒3章18節)の恵みを受け取ります。人の理性、能力、経験を超えた神の現実が、私の現実になります。

ノアの信仰とは、自分で箱舟を完成させることではなく、「神は成就してくださる」信仰です。事実、神が箱舟(教会・救い)を完成されました。

神の約束は、「あなたが」でなく「神が」ですから、みことばに従いましょう。私たちは弱いので、従う中でつまずき、悩み、不信を持ちます。でもそこから、また、従いましょう。さらにつまずき、倒れ…ます。でもそこから、さらに従いましょう。

友よ、従った後に文句を言うことにして、まずは従いましょう。神が愛するのはそのような人です。

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