キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第5章

5章1~3節

神は人を…神に似せてこれを造られ…。アダムは…自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。

(新共同訳)

「神に似る子」と「自分(人)に似る子」の二種類の子どもがいるようです。確かに、いのちがかたち(姿)を作りますから、神の子は神に似るし、人の子は人に似るのが当然です。すると、「どのように生きるか」と共に、「だれから生まれたか」はさらに重要になります。

ニコデモは、ユダヤの議員でパリサイ人でしたが、天国に入る確信がありません。そこで、イエスのもとに来て尋ねました。主は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3章3節)と言い、さらに「水と御霊によって」と加えました。しかし、ニコデモには理解できませんでした。

友よ。人には、自分を変えるよりも先に、生まれ直すことがより重要です。自分を変えるには「律法(自分の行い)」が必要ですが、生れ直すのは「恵み(神の業)」によるからです。それは、自分の能力によらず、神によって自分が変わることです。

神は、「その名を信じる人々には神の子となる資格を与え」(ヨハネ1章6~13節)ました。いのちがかたち(行い)を作りますから、今日も神のいのちによって、神の子として歩んでください。

5章23~24節

エノクは…三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

ある人が右の文を、「あ!エノクがいない。取られたのだ!神が」と直訳しました。そこから、エノクを失った人々の驚きやショックとともに、納得する様子も見えてきます。

ある人が、「人の一生の価値は、その人の死後に空いた空間の大小で決まる」と言いました。エノクがいなくなった時、人々の心に大きな空洞ができました。彼の寿命は、当時の人々のまだ半分ですが、人々に絶大な影響を与えていたことがわかります。

人々は、エノクがいなくなったのは、「神が取られた」からだと知っていました。それは、「神が自分のところ(天国)で、エノクが必要になったので連れて行ったからだ」と。そのことをだれもが納得できるほど、エノクは神と共に歩んでいました。

はたして、だれがいつまでも大きな影響を残す人でしょうか。それは、主を伝え、主を証する人です。その人は、エノクと同じに「主と共に歩んだ人」です。主イエスこそ、父と共に歩み、時が来て天に帰ったエノクです。

また、主イエスと共に歩むあなたもエノクの一人です。神が御自分のところにあなたを召す日まで、エノクとして歩んでください

5章3~27節

アダムは全部で九百三十年生きた。…八百七年…八百十五年…こうして死んだ。

創世記は、天地創造物語と思いがちですが、本来意味するところは「系図の書」です。アダム、ノア、セムなど多くの系図が出てきます。しかし、アダムの次にカインではなくセツが出てくるように、これは過去帳(一般的な家系図)を超え、まことの神に対する「信仰の系図書」ということができます。

ところで、あなたは900歳や800歳という長生きを望みますか。近年、長く生きているために苦しむ人々を多く見るとき、長生きと幸福が必ずしも一つでないことを知ります。百歳の長寿でも、30歳の短命でも、「こうして死んだ」の現実に直面すると、あまり大差がなくなります。行き着くところが同じなら、人生は同じだったと言えないでしょうか。

柿の木には柿の実がなるように、アダムの子孫はアダム(土)です。しかし聖書は、「アダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによって全ての人が生かされるからです」(Ⅰコリ15章22節)と教えます。

「生きる」とは、「今日も主と共にいる」ことです。主と共にいる人は、「永遠歳(年齢)」です。あなたは何歳?「永遠歳です」と答えてください。もう天国と地上の隔てはありません。

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