37章2節 ①
これらはエドムの首長で、…エドム人の先祖はエサウである。
この章にエサウの系図が詳しく載っています。多くの子孫が生まれ、首長や王たちも輩出され、大きな勢力となっていますが、「エドムの先祖はエサウ」と五回も繰り返し表現されています(1・8・9・19・43節)。
ある人が、「何びとも、その自伝に『神登場』の一字無きは空しい」と言いました。彼の子孫の系図に「神」の文字はなく、行き着くところは「エサウ」です。そのことの意味は、「神のことより、この世のことを優先した先祖の生き方が続けられていた」との証言でもあります。
どんなに大きな勢力、家柄、能力、財力をもつ系図を作っても、その系図(歴史)に、「神」が介入していないなら、決してすばらしい家族、家系とはいえません。
友よ。あなたの系図には「神」が記されていますか。両親や祖父母の時から、「神」が記されているなら感謝しましょう。そして、現在の家族とその歩みに「神登場」が記されるように祈りましょう。さらに、私たちの子孫の系図に、学歴や、財や、名誉でなく、「…さんの先祖は神を信じる人でした…『そして神に至る』」(ルカ3章38節・口語・新共同訳)と記されるように祈りましょう。
37章2節 ②
これはヤコブの歴史である。(新改訳)ヤコブの子孫は次のとおりである。
(口語訳)エサウの歴史が終わり、次はヤコブの歴史です。創世記は、この章から、ヤコブがイスラエルとなった後の家族のことが記されます。特にヨセフを軸にして、神の御心がどのように実現していくかを詳しく語ります。
エサウとヤコブの歴史を比較すると、ヤコブの家族には、争い憎み合うなど多くの問題がありました。しかし、この家族には「神の介入」がありました。一方、エサウは大きな部族になり、物質的にも豊かで大きな問題も見えませんが、「神」は除外され、エサウが主権者(リーダー)です。このことから、家族の現実が麗しいか否かよりも、その家族の上に「神」が主権を持っているか否かが大事だとわかります。
なぜなら人生を最終的に決定するのは、人ではなく、神です。人は、「栄光から栄光へと主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリ3章18節)。
友よ。変えられる人よりも、変えてくださるお方(神)がもっと大事です。日常の中に見える家族の姿に一喜一憂せず、祝福の約束(みことば)を成就してくださる神に今日も期待してください。
37章2節 ③
ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。
いよいよヨセフ物語の始まりです。ヨセフには、父の2人の妻と2人のはしためから生まれた多くの兄弟たちがいました。この家庭には、母違いの子たちの争いがありました。
父ヤコブは、泥沼の中で神と出会い、新しく歩み出しました。しかし、親が変ったといっても、子どもたちはすぐには変われず、以前の罪の実を持ったままでした。すでにヤコブの息子たちは大人になり、親が諭す年齢も過ぎています。
私たちにも、自分が救われ新しくされても、家族に自分の罪の結果を残している現実があります。自分と伴侶・子どもたち・父母たちにある理想と現実のギャップに苦しみます。
家族に与えた傷や重荷に悔恨し、立ち直らせるために、なにを…どこから…と戸惑う友よ。言い訳も、責任転嫁も捨てて、「苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さる」(ヤコブ4章9~10節)と招いてくださる父の胸に飛び込み、泣くことから始めましょう。父は子牛(小羊イエス・十字架)をくださいます(ルカ15章23節)。
37章2節 ④
ヨセフは十七歳のとき…彼ら(兄たち)の悪いうわさを父に告げた。
ヨセフは17歳頃、兄たちのことを父に告げ口する青年でした。このことの字面だけを取ると、どうしようもない愚か者に見えてきますが、実はこれこそ、神に用いられるヨセフの一端を垣間見せる記事です。
父ヤコブが神によって変えられたのは、ヨセフの10歳前後で、兄たちは、父の意見に聞き従う年齢をすでに過ぎていました。
ヤコブが家族を建て直すために、神に示されたのが、「霊的素質と若さ」を持つヨセフへの信仰継承です。彼はヨセフに、神とアブラハム、イサク、そして自分のことを、繰り返し語り聞かせたことでしょう。
神の真理に目覚めた人は、真理を基準にものごとを判断するので、時に鋭い批判者になる危険性もあります。ヨセフは、真理を知った事と、若輩のために、兄たちのことを父に告げ口しました。
しかし、人に必要なのは、まず真理(神を愛する)で、次に道徳(人を愛する)です。真理が他者への愛を作ります。
友よ。傷つけることを恐れ過ぎず、さらに深く真理を知ることを求めてください。すると、その真理が暖かい心を作り、「愛は、すべてを完全に結ぶ帯」(コロ3章14節)になります。
37章3節
イスラエルは、彼の息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。…それで彼はヨセフに、そでつきの長服を作ってやっていた。
かつて、父イサクはエサウを、母リベカはヤコブを偏愛しました。右のみことばも偏愛を告げるものでしょうか。彼は、もはや「ヤコブ」ではなく「イスラエル」ですから、決してそのようなことはしないはずです。
長い袖の着物は、跡取りであることを表し、本来は長男ルベンのものでしたが、11番目のヨセフに着せられています。このことは、ヤコブがヨセフを「霊的跡取り」にしたことで、年寄り子なので甘やかしたのでは決してありません。
それは、イスラエルが、神から、「ヨセフによって、ご自分の御心を成就する」との啓示を受け取っていたからです。子どもは平等に扱うべきですが、神が与えた賜物を、人間の常識を優先するために殺してはなりません。「一人一人に聖霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(Ⅰコリ12章7節)。
賜物が生かされると、その人も周囲の人々も祝福されます。神の選びや賜物を授かった人はへりくだり、その周囲の人々は、その人の賜物を重んじることが、自分がへりくだることです。それは、差別ではなくお互いの恵みになります。
37章4節
彼の兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった。
差別されることほど人の心を悲しませるものはありません。父がヨセフを愛する姿を差別と受け取った兄たちは気分を害し、その攻撃の刃をヨセフに向け、会話もできないほど憎みました。
しかし、父ヤコブは、ヨセフを愛し、兄たちを憎んだのではありません。ヨセフを「霊的跡取り」として区別し、兄たちをも救うために、ヨセフに心を注いだのです。
時に、神は一人の人を特別扱いされます。ルターやウエスレーや多くの者を特別扱いして、御自分の器に作り上げました。これは差別ではなく、全ての者に御自分の恵みを分けるためでした。事実、私たちは、主に特別な扱いを受けた歴史上の信仰の先輩たちや、周りにいる人々から、多くの恵みを受け取って今日に至っています。
あなたは、ある教会や兄弟姉妹の祝福を見る時、ヨセフの兄たちのようですか。それとも「…あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます」(ピリピ1章18節)と言い、「へりくだった心をもって互いに人を自分より優れた者としなさい」(同2章3節)を受けとめますか。
友よ。他者を祝福することは、自分の祝福です。
37章5節
ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
若者たちは夢を見るものですが、その夢が、自分の願いなのか、主の霊が注がれた預言としての夢なのか、を見分ける必要があります。ヨセフの夢は後者で、神の啓示でした。
夢は深層心理の表れで、心の底に蓄えられたものといわれますが、ヨセフの夢の出所は2つありました。1つは、神からヨセフへの直接的啓示。次は、父ヤコブがヨセフを特別扱いしてまで語り、教えた神の御心(使命)と家族の歴史(証し)。それらが重なった、神の「啓示としての夢」でした。
神の啓示は、ある時突然、誰かに、というものでなく準備された魂に与えられるものです。しかし、啓示を得て、それで高慢になり、人々を軽視してはなりません。ヨセフは、若気の至り、が先に立ちました。神のみことばは、剣(エペソ6章17節)であり真珠ですから、だれ構わず語ればいい訳ではありません(マタイ7章6節参照)。
みことばは、一刀両断に裁く刀にも、束縛の縄を切り、患部を取り除く、愛のメスにもなります。
神のみことばを預かっている友よ。「主よ、あなたのみことばを、自分にもあの人にも、いのちとしてください」と祈りましょう。
37章7節
見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、…あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」
神は、アブラハムを選んで選民(証し人)としました。三代目ヤコブの家族は、選民と呼ばれるには恥じるほどですが、万軍の主の熱心が選民に値する家族に変えようとします。
神は、「ヨセフの束が立ち、兄たちの束がひれ伏す」という夢で、ヨセフを用いて家族を救う幻を示されました。しかし、正しく理解できないヨセフは、見た夢のままを兄たちに告げ、むしろ憎まれます。家族を救うことは神の約束です。「…そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16章30節)。
しかし、ヨセフのように、直接、しかも少しの高慢、と共に語ることは反発を生み、家族や友人知人の心をもっと固くするものです。
だからと言って、家族に同調し、みことばと信仰のレベルを下げてはなりません。「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらします」(ヘブル10章35節)。
友よ。エリコの城壁を黙って回り続けた人々(ヨシュア記6章)を見習い、大声を出さず、謙遜の限りを尽くして愛の行軍を続け、家族と隣人たちの救いを、今日も祈り続けましょう。
37章9~10節
ヨセフはまた、ほかの夢を見て、「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。…父は叱って言った。「お前の見た夢は、いったい何なのだ。」
ヤコブは、ヨセフによる家族の回復を確信してきましたが、兄たちのみならず、「自分と妻(太陽と月)までもヨセフを伏し拝む」と聞いた時、神の御計画がわからなくなり、「いったい何なのだ」と語気を荒だてました。
神の子たちは、家族の救いや自分の将来についての導きを祈ります。しかし、ヤコブが叱ったように、自分が誰かにひれ伏してまで得る、となると二の足を踏みます。それは、他者を自分の思いに従わせることで適えようとしていたからです。
これが、神の御心が成就される壁となります。ヤコブはヨセフを高慢と思い、一瞬、感情的になりましたが、すぐに冷静さを取り戻し、「父はこのことを心に留め」ました(11節)。
神の御計画は、自分が描く筋書きと逆が多いものです。その時、計画の結果(祝福)は受け入れても、過程(試練)を拒否します。それは、神の祝福の計画は、あなたの嫌な人や出来事を用いる場合があるからです。
友よ。「われわれは神から幸を受けるのだから、災(試練)をも、受けるべきではないか」(ヨブ2章10節)を心に留めてください。
37章13節 ①
イスラエルはヨセフに言った。「お前の兄さんたちはシェケムで羊を飼っている。さあ、あの人たちのところに使いに行ってもらいたい。」
かつて争ったシェケム(創34章)で、兄たちが羊を飼っていました。ヤコブは兄たちを案じてヨセフを使いに出します。父の愛は、すべての息子たちに等しく注がれていました。
親子の関係は、子の人生を一番左右します。子は親に完全な愛を求め、求められる親は不完全で罪人です。また、たとえ親が完全でも、子自身が原罪を持つ、不完全な者です。兄たちは、自分の不幸が親にあると考え、憎みますが、自分の罪には気づいていません。
人は、不幸の責任を、出来事に、次に他者や社会に、さらに親に、最後は神に問いますが、自分の罪は隠して問いません。また、自分が受けた傷に目を注ぎますが、その人を憎む自分の罪は見ようとしません。そこに、解放はありません。父ヤコブ(神)はどの子も愛しているのに、兄弟たち(私たち人間)は憎しみ合っています。「怒りは、相手に飲ませる毒を自分で飲み、自分を毒するだけだ」と言われます。
友よ。自分には愛がありませんから、「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を…」(詩51・10)求めましょう。そして、あの人も私も等しく愛している父の目を見つめましょう。
37章13節 ②
すると答えた。「はい。まいります。」
ヨセフは、兄たちの安否確認のためシェケムに出かけました。出かける時、もう二度と父の家に帰ることがない、とは思いもしなかったでしょう。彼は無邪気に父に従い、兄たちへの愛のために出かけました。
人は天の父に対し、父ヤコブに反抗する兄たちのようです。天の父は、反抗する子たちをどれほど心配しておられることでしょう。
父の御心を知る御子イエスは、「見よ、私はまいります。書の巻に、私のためにしるされています。わが神よ、私は御心を行うことを喜びます。あなたの掟は私の心のうちにあります」(詩40・7~8・口語)と言い、自ら志願され、父と共に住む天国を捨てて、人となられ、私たちの所へ来てくださいました。 そして、私たちを心配し、「はい。まいります」(詩40・7)と言って来られた御子は、私たちの罪によって売り飛ばされ、地獄まで行かれました。
愛する友よ。神はあなたを捨ててはいません。御子をお遣わしになったほどに、あなたを心にかけています。そしてイエスは、「父よ、私が彼らの所へ行って、罪を赦しますから」と父を喜ばせ、私たちのために十字架につかれたのです。
37章15節
「ひとりの人が彼に出会った。その人は尋ねて言った。「何を捜しているのですか。」
聖書に登場する人物の中で、ヨセフほど主イエスの御生涯と働きを予表している人物はいません。父なる神に選ばれ、遣わされ(来臨)、兄弟たち(私たち)に奴隷として売られ(十字架)、獄から(地獄から)奇跡的に出て(復活)、王に次ぐ位に就き(父の右の座)、兄たちを悔い改めさせ(救い)、家族を回復させ(神の国の建設)、カナン(天国)へ導きます。ヨセフ物語は、神と人に関する物語です。
ヨセフが兄たちを捜すように、御子イエスも私たちを捜しておられます。私たちの魂が父から離れ、憎しみ合っていることも知っておられます。しかし、私たちは自分の魂が失われていることすら気づいていません。
自分が迷っている羊、失われている銀貨、死に至る病人であると知る人は幸いです(ルカ15章5・31・32節参照)。自分が何者で、どう生きるか、を捜している人は幸いです。なぜなら、御子イエスは、あなたを捜すために来られたからです。そして、聖霊は今あなたに、「何を求めておられるのですか」と尋ねておられます。
友よ。はっきり答えてください。「私はいつも神だけを求めています」と。
37章17節
するとその人は言った。「ここから、もう立って行ったはずです。あの人たちが、『ドタンのほうに行こうではないか。』と言っているのを私が聞いたからです。」
ヨセフは、兄たちを捜して、父の住むヘブロンから直線距離で70キロほど離れたシェケムに来ました。兄たちはそこで羊を飼っているはずでしたが、彼らはもっと先のドタン方面に向かって行った、と聞きました。
人は、兄たちのように、父なる神から、遠くへ、さらに遠くへと離れて行きます。愛し合う者同士は、近く、より近く、寄り添います。神の愛がわからない者はより遠くへ離れ、愛を知る者は近づきます。
天の父の愛に、「移り変わりや、移り行く影はありません」(ヤコブ1章17節)。人の方が、「羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向って行った」(イザヤ53章6節)のです。神が人を捨てたのでなく、人が父の愛を拒みました。
友よ。怒り、憎しみ、愛を放棄すること、自分や他人ばかり見ること…それらすべて、神から離れている姿です。神は、「あなたは、どこにいるのか」(創3章9節)」と、愛するゆえに語気を強めます。人の本当の居場所は、ドタン(井戸=「この世の水」)でなく、父と御子と聖霊の「霊のいのちの水」のあるところです。
37章18節
彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうとたくらんだ。
兄たちを心配して様子を見に来たヨセフを、兄たちは殺そうと企みます。それは、神に罪を裁かれる前に、神を葬り、罪を隠そうとする人間の姿でもあります。
神は、エリコの城壁内の者を聖絶せよ(ヨシュア6章参照)と命じられました。神の聖絶とは、人を裁き殺すことではなく、人から罪を分離することでした。それは、人の罪を御自身が引き受け、身代わりに死ぬ、十字架の出来事そのものでした。
神に罪を告発されるのを隠すことは、ヨセフを殺し、罪を隠す兄たちの行為です。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は憐みを受ける」(箴28章13節)。主イエスは、私たちの罪を聖絶するために来られました。
友よ。エリコがイスラエルの軍隊に城壁を堅く閉ざしたように、聖絶の主に心を閉ざし、罪を隠してはなりません。エリコで救われたのは、遊女ラハブと彼女の家族だけでした。なぜなら、彼女だけが、赤い紐を窓に下ろしたからです。「赤い紐」こそ、「主の十字架・聖絶」を受け入れるしるしでした。
37章20節
「今こそ彼を殺しどこかの穴に投げ込んで悪い獣が食い殺したと言おう。そして、あれの夢がどうなるかを見ようではないか。」
兄たちはヨセフの夢のことで憤っていますが、その夢は彼らが救われるための啓示でした。しかし、彼らは救いの前に置かれた、「ヨセフに頭を下げる」という過程が気に入りません。
人間同士における最悪の関係は無関心です。夫婦でも、表立ってけんか出来る限り、なお望みがありますが、無視は絶望の印です。同じく、神に正面から反対する人には救いの余地が残されますが、直接問いただすことも、文句も言わず、神の手段であるヨセフを取り除き、「あれの夢がどうなるか…」と言うことは最悪です。
他者の言葉、牧師・教師、教会論・聖霊論・終末論などの教理の違い、預言・異言・癒しなど神が用いる賜物の理解、などが自分にとって気に入らず、捨てることは、ヨセフを殺して神の御心を見ようとする事と同じです。
友よ。神が御心を成就する手段(ヨセフ)を退ける前に、直接神に確かめてください。確認の1つの方法は、「穴に投げ込まず」、「どうなるかを見る」ために時間をかけて待つことです。主イエスこそ、ダメな私を捨てず、3年待って、さらに1年待ってくださるぶどう園の番人です(ルカ13章6~9節参照)。
37章21節
しかし、ルベンはこれを聞き、彼らの手から…救い出そうとして「あの子のいのちを打ってはならない。」と言った。…父のところに返すためであった。
長兄ルベンには、父の寝床を汚した罪の痛みがありました(35章22節)。父に対する負い目もあってか、弟たちのヨセフ殺しに加担できず、後で救う計画を秘めて、右の提案をしました。彼は罪の怖さを知っています。
罪の痛み悲しみを知ることは、罪に対する抑止力となりますが、それだけではヨセフを後で助けようとしてもできなかったように、中途半端です。
モーセの十戒も消極面=「…してはならない(マコ10章19節)」と、積極面=「…しなさい」があります。その積極面は、「愛しなさい(同・12章30~31節)」です。罪への恐れだけでは、他者も自分も本当に救えません。人を罪から守り救うのは積極的な愛です。
愛しているなら、殺す、別れるなどできません。愛は無意識の中で律法を守ります。「愛は律法を全うします」(ロマ13章10節)。ルベンがもう一歩進んで、自分を犠牲にして弟たちに臨んだなら、事態は変わりました。
弱い友よ。愛することが問題の本当の解決策です。罪を「捨て、離れ、退ける」だけではなく、「近づき、引き寄せ、受け入れる」愛も必要です。
37章23~24節
ヨセフが兄たちのところに来たとき、彼らはヨセフの…長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込んだ。その穴はからで、その中には水はなかった。
兄たちは、ヨセフを穴に投げ落とす前に長服をはぎとりました。そうしたのは、跡継ぎが身に付ける長服を、ヨセフが身に着けていることこそ、腹立たしかったからです。
マタイ21章に…「一人の家の主人が畑を農夫たちに貸して旅に出た。収穫の季節に、収穫の一部を受け取ろうと僕たちを遣わしたが殺されてしまった。最後に主人は、自分の息子なら敬ってくれるだろうと遣わした。すると農夫たちは、息子を殺して、全てを自分たちの物にしようとした」という物語が記されています。
人々は、イエスを偉大な宗教家、教育家、革命家としては認めますが、「長服」を着る「神の一人息子」であることは認められません。それで、イエスから「神」という権威(長服)」をはぎ取り、さらに「人間イエス」を葬るために十字架につけました。
友よ。その長い服こそ、私たちの罪を贖う「神の子羊・救いの衣」です(ヨハネ1章29節参照)。その服を自分が着て、自分を神(自己中心)としてはなりません。イエス(ヨセフ)に着て頂くことこそ、自分の救いになります。
37章27節
さあ、ヨセフをイシュマエル人に売ろう。我々が彼に手をかけてはならい。彼は我々の肉親の弟だから。」兄弟たちは彼の言うことを聞き入れた。
兄たちはヨセフを自分の手で殺そうとしましたが、肉親の情が移り、殺さず穴に投げ入れました。その時、エジプトに行く隊商が通りかかり、銀貨20枚で売り渡しました。
もしも私がヨセフなら、兄たちに、「殺される・穴の中で死ぬ・奴隷になる」の中で、殺される方を選ぶかもしれません。死ぬまで奴隷となるのは惨めです。
同じく、神の子として生まれたのに、罪の奴隷となることは、生ける屍(しかばね)です。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます」(ロマ8章15節)。
人は神に出会い、交わり、愛される神の家族の一員ですが、実際は罪とサタンの奴隷となり、操られ、憎み、恨み、裁き、嘘をつきつつ、惨めに生きています。
友よ。あなたの魂(ヨセフ)を罪に売り渡してはなりません。自分の命(見栄・自尊心・恥・立場・快楽…)を守るために、イエス(ヨセフ)を売り飛ばしてはなりません。命を捨てて愛して下さるお方は、主イエスだけです。
37章29~30節
ルベンが…、兄弟たちのところに戻って、言った。「あの子がいない。ああ、私はどこへ行ったらよいのか。」
「ヨセフを殺せ!」という叫びの中、一人反対し、後で助けようと、穴に投げ込む提案をしたルベンが帰ってみると、ヨセフは隊商に連れて行かれた後でした。彼は右のように嘆きました。
ヨセフは、救い主イエスの雛形です。イエスは、父から遣わされて兄弟たち(私たち)の所へ来られましたが、人々は彼から神の衣を剥ぐため、十字架刑にしました。
しかし、奴隷として葬られたヨセフが、宰相になり、兄弟たちを救ったように、イエスは復活して私たちを救いました。人が、自分の思い通りの人生を歩んでも、主イエスを見い出せなければ、「あの子(救い主イエス)がいない。私はどこへ行ったらよいのか」と嘆かねばなりません。
「自分がどこへ行くのか」は、最も重要な問いです。人は、「死からいのちへ・汚れから聖へ・この世から神の国へ・失望から希望へ・卑しい者から尊い者へ・孤独から交わりへ・奪う者から与える者へ」と、主に連れて行っていただく存在です。
友よ、あなたは「どこへ行くのでしょうか」。あなたは、「御霊」によって「主イエス」へ、主イエスによって「父の神」へ、行くのです。
37章31節
彼らはヨセフの長服を取り、雄やぎをほふって、その血に、その長服を浸した。
ヨセフを売り飛ばした兄たちは、弟が獣に殺されたように偽装工作をし、罪を隠ぺいしました。しかし、そうすればするほど、「悪者は自分の咎に捕らえられ、自分の罪のなわにつながれる」(箴5章22節)ことになります。
イスラエルはエリコを倒した後、小さな町アイで敗北しました。神はその原因を、部族、氏族、家族の順に捜し出し、アカンの罪に行き着きました(ヨシュア記7章)。アカンをアコルの谷で殺した後、やっと勝利を得ました。
罪が処断されてこそ、いのちが回復します。「教会はゆるし合う所で罪を指摘する所ではない」と思うのは間違っています。教会は、裁く所ではありませんが、罪が明らかにされ、主の十字架で取り除かれる所です。ヨセフの兄たちのように、互いに罪を隠し、無いものとするなら、教会から聖霊の火は消えてしまいます。「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい」(ルカ17章3節)との厳しい戒めは、教会にいのちを満たすためです。
友よ。互いに戒め合い、主に罪を背負っていただくことが愛することです。互いに裁いてはなりません。裁きは主の十字架で終わっています。
37章34節
ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。
ヤコブがイスラエルとなった時から、一家の「霊的救い」と「選民としての使命」を果たすことを願い、それをヨセフに託すことが彼の祈りでした。しかし、ヨセフの血染めの着物を手にし、望みが絶たれ、幾日も泣き続けました。
ゴルゴタへ引かれる途中のイエスが、「エルサレムの娘たち。私のことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい」(ルカ23章28節)と言われました。主は、「私よりもあなた方の方がもっと大きな悲しみの中にある」と言われたのです。
私たちは、子どもの「肉体の命」と「霊のいのち」のどちらを憂えているでしょうか。天の父である神の本当の悲しみは、主イエス(ヨセフ)よりも、神のいのちを失っている私たち(兄たち)にありました。
友よ。まだ救われてない子のために泣いて祈れますか。もし、子どもが目の前で殺されるのを見たら、絶叫し、体を震わせ、全てを差し出して助けを叫び求めませんか。主イエスは十字架の上で、「父よ、彼らを赦したまえ」と、まさにその事をしてくださったのです。霊の悲しみは愛になり、愛は「祈り」と「行動の力」となります。
37章36節
ミデアン人の隊商は、ヨセフをエジプトの高官に売りました。彼らは、神を恐れず、自分の利益で動く人々です。しかし神は、神を恐れない者たちさえも、御自分の目的のために用いることが出来るお方です。
事実、自分に不利なことをする人々の中にも、神の御業を見ることができます。逆に、自分をほめる人々の方が神を見えなくしがちです。人は持ち上げられると、神を求める必要がなくなるからです。ヨセフは、隊商に引かれて来る間中、どれほど神に叫び祈ったでしょうか。
彼が最悪の状況のただ中で、どうして神を見上げることができたのでしょうか。貧しさや悲しみには、神を見上げるという恵みがありますが、「火のない所に煙立たず」も然りです。ヨセフの「煙(祈り)」が上(神)に上がったのは、父ヤコブが彼の内に築きあげた「火種(信仰・みことば)」があったからでした。
友よ。いつも自分の霊性を養うこと、家族に神を証しすることを怠ってはなりません。だれの人生にも、必ず逆境がきます。その時、蓄えられた火種が、神に助けを求める狼煙(のろし)を上げさせます。