キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第35章

35章1節

神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、…あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」   

ヤコブ家は、ヤコブの子たちが土地の男たちを殺害し、略奪したことで、周辺の多くの部族を敵に回し、身の危険を感じるようになりました。

神は、困惑するヤコブに、「立って(この世から離れ)、ベテルへ行き…住み…祭壇を築きなさい(礼拝中心の生活をしなさい)」と勧めました。ここ、シェケムでも祭壇は築いていましたが(創33章20節)、それは形だけで、未信者と同じ所に身を置いて生きていました。

パウロは、礼拝について「あなたがたのからだを…聖い、生きた供え物として献げなさい…」(ロマ12章1節)と勧めました。それは、「心と魂だけでなく、からだごと神に近づいて生きよ」との教えでもありました。

神は、牛やろば以上に頑固な罪人に(イザヤ35章3節参照)、「さあ、来たれ。論じ合おう」と挑戦します。神が人に望む議論は、人の罪の告発や断罪ではなく、「たとえあなたの罪が緋のように赤くても…雪のように白くする」(同18節)、罪の赦しについて、論じ合おうと言われます。

友よ。神は、裁きについてよりも、救いについて語りたいのです。

35章2節

「そこでヤコブは自分の家族と、すべての…者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。」

現実を変えるには、現実への失望と未来への希望の二つが必要です。その両方を示してくださるのが神です。ヤコブは身の危険が迫る現実と、神の声に希望を持ちました。

「イスラエル」になったのに、昔のヤコブと変わらなく見えた彼が、「偶像を捨て、身をきよめ、着物を着替えてベテルに行こう」と家族に宣言しました。彼は、やっとイスラエルの名に恥じないリーダーになりました。それは、子どもたちが殺人者になった現実から、自分の信仰を徹底的に悔い改めさせられたからです。彼は、ベテルに行く理由も、「私と共におられた神に祭壇を築くため」(3節)と、家族に明言します。兄から逃げてシェケムに来た時のヤコブとはまるで別人です。

「着物を着替えなさい」とは、「古い自分を脱ぎ捨て、新しい御霊によって仕えよ」(ロマ7章6節参照)という意味です。あなたは自分の弱さや失敗や能力のなさ、家族を愛せなかった負い目から、霊的リーダー失格と思っていませんか。

しかし、友よ。ヤコブのように立ち上がらねば、家族はさらに罪の深みに陥ります。

35章5節

彼らが旅立つと、神からの恐怖が周りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らの後を追わなかった。

霊的秩序の回復は、偶像を取り除くことから始まります。ヤコブの家族が偶像を取り除いた時から、神の臨在がヤコブの家族を包みました。そして、殺意に満ちた周りの人々が、この家族に手出しできなくなりました。

聖書の中で、偶像は愛人に、偶像礼拝は姦淫にたとえられます。神は、どんな罪人にも手を伸ばし、救うことができますが、唯一、偶像礼拝の罪には手を出せません。なぜなら、愛人の家に入り、熱中している者(偶像礼拝者)を無理やり引きずり出すなら、それは人権の侵害になります。「神は愛」なので人に意思を与えてくださいました。その意思を無視して介入することはありません。

しかし、人が自らの意思により偶像を捨てたとき、神はその者に係わりを持つことができます。人々を恐れさせたのは、ヤコブではなく、彼らを守る神の御臨在でした。

友よ。世に妥協することなく、神だけを愛するあなたの真実な生き方は、神の御臨在を受け、人々に神を示し、愛することにつながります。「もし、あなたが真実と公平と正義を持って『主は生きておられる』と誓うなら、諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする」(エレミヤ1章2節)。

35章6~7節

ヤコブは…ベテルに来た。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・ベテルと呼んだ。それはヤコブが兄からのがれていたとき、神が彼に現われたからである。

ヤコブは、20年前に神と出会った場所に戻りました。この地に着いた時、どんなに懐かしく、安堵したことでしょうか。自分が救われた場所、教会、その時の聖書の言葉、祈ってくださった兄弟姉妹、それら全てはまさにエル(神)・ベテル(家)のようです。

「ベテル」、それは神との「出会い」と「約束」の場です。20年間の紆余曲折がありながらも、ヤコブが神と正しい関係に戻れたのは、「彼のベテル」がはっきりしていたからです。

聖霊が、「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」(黙2章4節)と言いました。神の子として今あるのは、「初めの愛」があったからです。しかも、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し」(Ⅰヨハ4章9節)てくださったことに、始まりと根拠があったのです。

あなたの「ベテル」は、どの約束のみことばで、だれが証人で、何時、何処でしたか? それがあったから今のあなたがいます。それを忘れていませんか。

さあ、愛する友よ。あなたのべテルを思い出し、父なる神・イエス様・聖霊の唯一の神が待つ本当のベテルへ帰りましょう。

35章10節

神は…。「あなたの名はヤコブであるが…、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない」。…彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。

幼子が自分の名前を、「…ちゃん・くん」と呼ぶ姿は愛くるしいものです。しかし、老人が、ある日突然、自分を、「神の王子」と言いだしたら? 周りの人々は変人と思うでしょうし、相手にもしなくなるでしょう。

ヤコブは、自分の名を「イスラエル」と呼ぶようになりました。彼は気が触れたのでしょうか。あるいは高慢になったのでしょうか。いいえ、彼は神につくられ、罪を赦された神の子である「名(存在)」と、神が望まれる「使命」を本当に自覚したのです。

多くの人々は、自分の名(存在)を知らないため、価値や生きがいを見いだせません。自分を尊い存在だと思える者は、自分を大切にし、他者も愛することができます。

「神の王子」である友よ。どうぞ、自分を「イスラエル(神の王子)」と呼んでください。それは、思いあがりでなく、神が「あなたはイスラエルでなければならない」と命じたからです。名をつけるのは親です。人間の親による命名には限界がありますが、父なる神による命名は、神が御自分で誓われた絶対のものです。

35章13~14節

神は彼に語られたその所(ベテル)で、彼を離れて上られた。ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち石の柱を立て、その上に…ぶどう酒…油を注いだ。 

神はベテルでヤコブに祝福の言葉を語られ、その所から天に帰られました。復活したイエスも、弟子たちに40日間神の国について語り、数々の証拠をもって自分が神であることを示されました(使徒1章3~9節参照)。

主イエスは昇天前に、「…私から聞いた父の約束を待ちなさい(同4節)」との最後の言葉を残されました。このことからも、天と地をつなぐものは神の言葉であるとわかります。そして、この神の言葉があるところが「ベテル」、すなわち「神の家」です。

教会もベテルですが、より本質的ベテルは「神のみことば」です。なぜなら、ベテルは、神に語りかけられ、聞き、祈る、神との交わりを持つところだからです。

友よ。あなたは、自分が惨めな時、自信を失った時、不安になった時、悲しく自暴自棄になりそうになった時に逃げ込む家(みことば)を持っていますか。そこに入るなら、父が待っておられ、あなたを抱きしめ、慰め、励まし、自信を取り戻させてくださいます。あなたが思いっきり泣くことができる家です。その後、あなたを平安と確信に満たして送りだしてくださる家です。それがベテル・みことばです。

35章16節

彼らがベテルを旅立って、…ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ。

ヤコブは、やっとベテルに着いたのに、すぐそこを離れエフラテに旅立ちました。その途中、ラケルは激しい陣痛の中でベニヤミンを産み、それが原因で死にました。臨月の妻を抱え、なぜベテルを離れたのでしょう。

その理由は、20年間離れていた父に会い、共に暮らすことを願った、とも考えられます。人は、肉親への思いと神の御心の間で迷います。その時は、「隣人(家族)を愛する」より「神を愛する」ことが優先です(マタイ22章37~40節参照)。

さらに、隣人を愛するうえでは、「父」より「妻」を愛することが優先です。ベテルにとどまり(神を愛し)、妻を愛し、次に父を愛するのであれば、妻ラケルが助かった可能性もありました。人生を振り返ると、「あの時、ああすれば…」と後悔することが多くあります。

「罪の増すところに恵みも増す」のみことばを、安易にとるのは危険ですが、しかし、罪人はこのみことばにすがるほかありません。ある人曰く、「過去の事実は変えられない。しかし、過去の意味は変えられる」と。意味を変えてくださるお方こそ主イエスです。

心痛む友よ。あなたが悪い状況にいようとも、ここから神を愛する方向へ歩くのです。ここから、今から、でも遅すぎません(ロマ8章28節参照)。

35章22節

イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた。 

ヤコブの家族は、ベツレヘムに住まいを得ていました。ラケルの死と引き換えのベニヤミン誕生と成長、新しい土地での緊張感などが一族に結束を与えていたと考えられます。

そんな中、長男ルベンと父ヤコブのはしためビルハの姦淫事件が起こり秩序が破られました。この事件は、ヤコブの今の信仰の良し悪しを示すよりも、それ以前に家族の中にあった罪(二人の妻と二人のはしため。汚れた模範・憎み争う家族関係)が芽を出し、実をつけたものでした。

「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」(エペ6章7節)。このような現実に直面し、「神を信じて生きているのに、なぜ」とたじろぎます。

友よ。信仰に歩んでいるなら問題が起きない、というわけではありません。問題があらわになるのは、あなたがより神に近づいたからこそです。さらに「…悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせ」(Ⅱコリ7章10節)るためです。神は、そのことを通し、あなたの家族をより聖別しようとします。

友よ。出来事を恐れず、そこから主のメッセージを受け取ってください。

35章27~29節

ヤコブは…ヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った。そこはアブラハムとイサクが一時、滞在した所である。…イサクは息が絶えて死んだ。

ヤコブは、20年ぶりに父と再会しました。家を出た時、父の視力は衰え、死期が近い状態でした。父と子は、思いがけず再会できたことに、どんなにか喜び合ったことでしょう。でも、家を継いだ兄は親元にいませんでした。

かつてヤコブは、「兄は親孝行だが、弟は親を捨てた」と人々から言われたことでしょう。しかし、父の最期を看取ったのは兄でなく、親不幸呼ばわりされたヤコブでした。

昔のヤコブの行動は、神の祝福を求める熱意からでした。彼が、先祖から受け継いだ霊の流れ(約束)に戻れたのは、彼の神の恵みを求める求道心に、神が応え、導くことができたからです。反対に、求道心のないエサウには、神は手を出すことができず、導くことができませんでした。

友よ。愛する者を一時的に悲しませることがあっても、人の顔を恐れて、「神の国と神の義とをまず第一に求めよ」(マタイ6章33節)を止めてはなりません。人生の帳尻は、自分でも他人でもなく、神が合わせるものです(黙20章12~13節参照)。神に導かれ易い自分(いつでも、どこでも神を求める者)でいてください。

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