キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

創世記 第3章

3章1節 ①

神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。

神が蛇(サタン・悪しきもの・この世の君)を造ったの?これも「善悪を知る木」のように謎です。聖書は、天使は神に造られ(詩148・1~5節)、神の御子・イエス・キリストを拝み(ヘブル1章6節)、人々の救いのために仕え(同・14節)、天の父の御顔をいつも見ている(マタイ18章10節)存在だと記します。

なぜ、神を拝し、人の救いに仕える御使いが、神に敵対したのでしょう。それは、天使にも「格(自由意志)」と人に勝る能力が授与されたので、「私は天に上ろう…いと高き方(神)のようになろう」(イザヤ14章12節)と高慢になり、罪を犯すことができました。

しかし、さまざまの問題をサタンの責任だけにはできません。人こそ、自由意志と創造力が与えられた「小神」のようで、堕落天使のように自分を神とすることもできます。

サタンの狡猾は、人が犯す罪を、神と自分(サタン)に責任転嫁させ、人から罪の自覚を除きます。しかし、サタンの存在と働きを打ち砕くことが救いである、と強調する教えにも要注意です。なぜなら、罪を解決できればサタンの力は除かれますが、サタンを負かしても罪は解決しないことを覚えてください。

3章1節 ②

園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。

アダムとエバに語りかけたサタンは、彼らの養育天使だったとも考えられます。それは、彼らと親しく話し、警戒させず信じさせたのは、以前から互いをよく知っていたからです。

サタンの武器は、真理を偽りにし、偽りを真理に見せる「嘘」です。その手口は、「園のどの木からも」と神の言葉を曖昧にし、次に「本当に」と疑わせ、相手が迷うと「決して死にません(4節)」と断定します。さらに、あなたは「神のようになれる」と罪を魅力的に教え、最後は食べるな、と愛の忠告をした神を「敵」に仕立て、敵意さえ持たせます。

マタイ四章の荒野の試みは、「石をパンに」…(父に関係なく、あなた自身でいのちを造れ)、「飛び降りよ、神支える」…(あなた自身が計画し父を従わせよ)、「ひれ伏せ、全て与える」…(父ではなく、あなたが支配者になれ)でした。

サタンの目的は、父なる神からイエスを離し、独立させることでした。同じく、サタンはあなたを主イエスから引き離そうとします。イエスが父の神から、私たちが主イエスから離れたら、いのちを失います。友よ。「父と御子と聖霊」の交わりから、今日も、決して離れてはなりません

3章6節

その木は、…食べるに良く、目に慕わしく、賢くする…女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。

観光案内には、アダムとエバが食べたりんごの木が中東イラクにあると?しかし、事実はりんごの木ではなく「善悪を知る木」でした。善悪の「善」とは神が良しとし、「悪」とは神が否とするものです。それは神が決める、「真理の基準」である「戒め」のことです。

神の十戒の第五戒「殺すな」が人の手に握られると、「あの人は死刑だ」となります。多くの独裁者や全体(共産)主義者たちが、真理を自分の手に握り、自分が立法者になり殺戮(さつりく)を是認してきました。

人が、善悪の木の実を「取って食べた」とは、自分の手に真理・戒めを握り、自分を基準としたことです。それは、「自分を神」とすることです。まことの神でなく、自分を神とする「原罪」は今も人の血(いのち)の中にあります。

しかし、自分の罪をサタンやアダムとエバに責任転嫁はできません。なぜなら、彼らが存在しなくても、私自身で罪を犯すことができるからです。自分の手に握り、「我思う、ゆえに我あり」の自己中心を、「神思う、ゆえに我従う」の神中心に変えてください。それが、善悪の木である「神の戒め」を守ることです。

3章9節

あなたはどこに居ると一番落ち着きますか。自分の部屋・食卓の椅子・夫や妻や親の座・職場・テレビの前ですか。「わたしは大きな喜びをもって、彼(主イエス)の陰に座った」(雅歌2章3節・口語)とは、貧しい羊飼いの娘の言葉です。同じように、私たちの居場所は主イエスの御元・陰(守り)です。

神は、エデンの園から逃げ、園の木の間(この世)に隠れたアダムとエバに、「あなたは、どこにいるのか」と問うた次の言葉は、「出て来い、懲らしめてやる」ではなく、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43章4節)です。彼らを引き戻そうとする神の愛の絶唱です。

人の悲しみ・痛み・苦しみ・失望は、親なのに親の立場を失ったり、夫(妻)なのに夫(妻)の立場を、「愛の居場所」を失う喪失の中に一番表れます。それは、仕事や物や健康を失う以上のものです。なぜなら、人は愛に生きる者だからです。

友よ。神には、「私は、ここです」と応え、家族隣人には、「もう逃げない。私はあなたを愛します。」と告白してください。そして、勇気をもって近づいて行ってください。

3章11節

彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。

(口語訳)

サタンがアダムとエバを誘惑し、罪を犯させた後、「彼」なる「イエス」と、「おまえ」なる「サタン」の戦いが始まりました。主は、サタンの頭を踏み砕き、決定的なダメージを与えます。サタンは、イエスのかかとを砕き、一時的に(三日間)立てなくします。これは、十字架による人類救済の最初の預言です。

二千年前に、主が十字架でサタンの頭を砕いたのに、なぜ今もサタンが存在し働くのでしょうか。例えるならば、全世界が「罪」の壁に囲まれ、「悪魔なるこの世の君」に支配され、全ての人が「死」に閉じ込められました。その壁に、自由に出入りできる一つの穴が開けられました。すると、壁の中には「罪とサタンと死」はありますが、自由に出ることができるので、それらの力は無力です。十字架こそ、救いの門、天の門、自由の門です(ヨハネ10章参照)。

十字架は、サタンの「存在」を消滅させたのでなく、力を「無力」にしたのです。

今すぐに、サタンを取り去ることは、罪を持ったままの人も同時に取り除くことになります。サタンが、完全に取り去られるのは再臨の時です。神はそれまでに、人の「罪を裁き、いのちを救う」十字架の門を開けて、一人も滅びないで救われることを、今も待っておられます。

3章12~13節

「あなたが私のそばに置かれたこの女が…。蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

園の中央(霊の世界)から追い出され、園の木の間(この世)に身を隠したアダムとエバは、逆境の中で互いが助け合うべきです。ところが、夫アダムは妻エバに、エバは蛇(サタン)に罪を責任転嫁し、責め合います。

「信仰」と「真実」は、共通する言葉だそうです。信頼関係は、相手が完全だから持てるものではなく、真実からつくられるものです。たとえ不完全な者同士でも、嘘偽りのない真実が善い交わりを生み出します。

神がアダムとエバに求めているのは、彼らが神のように完全であることではなく、神の前に真実であることです。不真実は交わりを絶ち、真実はいのちの交わりを豊かにします。

人の内に真実はありませんが、神の恵みが真実を作り出してくださいます。それは、父が御子イエスを遣わして、人の罪を贖うと約束され、主イエスが聖霊を遣わすと約束されたことを「真実」に成就されたからです。

主イエスこそ、「真実」(黙19章11節)なお方です。真実な方に目を注ぐと、不真実な私たちに「真実=信仰」が与えられます。それが交わりといのちです。だから信仰は神の賜物です。

3章14節

神は…蛇に…、「おまえが、こんなことをしたので、あらゆる野の獣よりものろわれる。」

神より力の劣るサタンが、まことの神以上の神になるには、人に罪を持たせる(犯させる)ことです。そして、神の子(人)を人質にすることで、神以上の優位な立場に立てます。神は、子(人)を愛する父(神)ですから、子の罪を裁くことができなくなります。神が罪を裁けなくなれば、自分も裁かれず、支配者に君臨できると考えたに違いありません。

しかし、神は屈服もへつらいもせず、サタンに「お前は…呪われる」と宣言します。神のこの強さはどこにあるのでしょうか。それは、愛(アガペー)にあります。愛はいのちです。いのちは一人の中にあるのでなく、相手との「関係」にあります。相手がいなくては自分もなくなります。だから、相手を奪い返すために、自分のいのちを賭けて戦います。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(Ⅰヨハネ4章18節)。

愛する友よ。神にとってあなたはいのちです。だから、父は独り子・イエスを世に送り、サタンと罪からあなたを奪い返すために十字架で戦わせました。それは、綺麗ごとでなく、あなたがいなければ自分もなくなる、アガペー(愛)から出た欲求です。それほど神は、あなたを大事に思い愛しています。

3章16節 ①

わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む 

(口語訳)

男性は、組織上の立場や仕事の出来高など、外面的評価に生き甲斐を持ちます。女性は男性以上に、家族などの人との係わりで生きています。そして、女性が子を産み育てるのは、神が与えた賜物です。それを感謝して受け取るところに生きがいと喜びを見出します。それがどうして「苦しみ」に変わったのでしょうか。

生きる力と喜びは、神が定めた正しい「愛の秩序」の中に生まれます。それは、父がイエスを愛するとは「守る」ことで、子が父を愛するとは「従う」ことでした。夫が妻を愛するとは「守る」ことで、妻が夫を愛するのは「従う」ことです。親は子を「守り」、子は親に「従う」ことが愛の秩序です。しかし、神から離れ、神との秩序が壊れると、人と人との秩序も失われ、自己中心が支配します。

産みの苦しみとは、出産の苦しみ以上に、女性の喜びである子育てにも及びます。それは、夫に愛されず(守られず)、子から反逆(不従順)されるからです。

友よ。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」(ルカ18章13節)と胸を叩いて叫んだ取税人のように、家族に及んでいる原罪と自分の罪を悔い改めましょう。

3章16節 ②

しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。

妻が夫を「恋い慕う」の言葉は、妻が夫を愛しているように読めますが、正しくは「欲する・支配する」です。それは、「夫を自分の願い通りに支配する」が正しい解釈となります。 一方の夫は、あからさまに「妻を支配する」と記されています。すると、夫は妻を支配し、妻も夫を支配します。

神から離れた夫婦愛は、アガペー(完全愛・自己犠牲愛)を失い、エロース(価値追求愛)になりました。エロース(男女間の愛)は、ギブ・アンド・テイクが前提ですから、相手から受け取る以上に奪われると怒り、相手を自分の思い通りにします。それが通らなければ、離婚や無関心になって自分の利益を守ります。離婚とは、「あなたは私には価値がない」ということです。

しかし、神が男と女を造り、二人を一体としたのは、夫婦が互いを自分のために利用し合うためではありません。それは、父と御子イエスがもつ、愛する喜び、愛される喜びを与えるためです。「愛は神から出るもの」(Ⅰヨハネ4章7節)です。

今日も自分の内側の罪を探っていただきつつ、「神よ、あなたの愛を私にください」と祈りましょう。

3章17節

土地はあなたのゆえに呪われ…あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。

男性には、地を治め、妻子を守り養う、労働とリーダーの賜物が与えられました。それには重い責任が伴いますが、生き甲斐と喜びでもありました。その労働が苦しみになったのは、「善悪の知識の木」を取った後でした。

罪を持つ以前の男性は、妻子のために働くことが喜びでしたが、罪を持ってからは、家族の犠牲になる、損なことに思えます。それは、父なる神、御子イエス、夫、妻、子という「愛の権威と秩序」が崩れたからです。

一家の頭(リーダー)の男性にこそ、主イエスという「頭」が必要です。主に自分自身を支えていただいてこそ、自己中心から解放され、妻を愛し、子どもを守ることができます。罪は、霊的、精神的、肉体的、そして自然界の法則に至るまで秩序を破壊しました。

神から、「(万物を)支配するように」(創1章26節)委託された管理者が間違うと、自然界も人間社会も狂いだします。その結果、喜んで働き、喜んで収穫できる世界が一変し、「苦しんで食を得」ねばならなくなりました。

男性諸君。今一度、我々に与えられたリーダーと労働の喜びを取り戻すために、信仰によって立ちあがろう。それは、本気になってイエスを自分の主人とすることから始まります。

3章19節

あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。

人は、土のちり(両親とこの自然世界からつくられた肉体と心。それを「肉」とも表現します)の中に、いのちの息を受けて生きる者とされました。それなのに、その息はどこに行ったのでしょう。人が一生を終える場所は、やはりお墓(土)なのでしょうか。

20歳の青年が、やけどで入院した父のベッドの側で、「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している」(ヘブ11章13・14節)のみことばに心が震えました(拙者の証し)。

人が天国を渇望する時、いのちの息が土のちり(肉)を聖くし、その人を変えます。いのちの変化は、生きる基準も希望も変えます。

友よ。親とこの世から受け取ったいのちで神を見るのでなく、神のみことば(思い)から自分と世界を見てください。その時、あなたの存在はちりを超えた「霊」に支配されるようになります。そして、「霊はこれをくださった神に帰る」(伝道12章7節)のですから、あなたの人生は墓に行くのでも、死んで終わりになるのでもなく、天国へ帰ります。

3章21節

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

ある人は、「自分が造った人間が罪を犯すと、エデンから追放するとは…神は無情で無責任だ」と言います。その人は、手のつけられない子を家から追い出す親と神を重ねているようです。しかし、神は自己中心な人の親とは違います。神は、アダムとエバをエデンから追放する前に、「皮の衣」を着せました。

それは、「救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ」(イザヤ61章10節)とある、旧約聖書で示された「動物犠牲」です。動物犠牲は、神が人となり、罪人の身代わりとなられた、「イエスの十字架の贖い」の啓示です。

神は「義と聖」なるお方ですから、彼らをエデンから追い出さねば、裁き殺さねばなりません。それを免れさせ、再び天国に戻ってくるための「救いの衣」を差し出したのです。エデン追放は、「裁き」でなく、彼らを「守る」ためでした。

この「皮の衣」は、カルバリの丘で裂かれたイエスの肉と、流された血で織られました。これを着ると、「父よ、彼らを赦したまえ」(ルカ23章34節)と衣(主の十字架)が父なる神に執り成し、叫びます。人が作るどんな衣服(救い)よりも、神の衣(救いの衣・皮の衣・義の衣)があなたの守り・安全・平和です。

3章22節

「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」

(新共同訳)

神から追われ、絶望と悲しみのアダムとエバがエデンから追放される聖画があります。しかし、聖書の真理は、「罪から来る報酬は死」(ロマ6章23節)なので、彼らがエデンの園に居ると、神は彼らを裁かねばなりません。そこで、神は彼らを守るため追放しました。

それはまた、天国を罪とサタンから守るためでもありました。天国の第一の条件は、「罪がない」ことです。永遠に続く天国は死のない世界です。そこに、罪と死とサタンが許されるなら、永遠に苦しむことになり、人の究極の救いはなくなります。それよりは、「無」になることが救いに見えてきます。

神は、罪人がいのちの木の実も取って食べ、天国が汚されることを許しません。罪が天国に入る(いのちの木の実を食べる)のを阻止するために、回る炎の剣(24節)を置きました。

友よ、問題や不条理を、自分の手を伸ばし、自分で解決しようとしていませんか。神はあなたの手が伸びる前に、「皮の衣」という「主の十字架」を備えてくださいました。その衣をつければ、回る炎の剣は何の害も与えません。それどころか、命の木の実を食べるあなたを罪とサタンから守る剣に変わります。

3章23~24節

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出され…、回る炎の剣を置かれた。

神に追放された罪人がエデンの園に入ってくると、炎の剣が待ち構え、たちどころに焼き殺されます。こんなことをする神は、愛の神?それとも裁きの神?なのでしょうか。

神の御性質は、「義・聖・愛・永遠・全知・全能」などと表現できます。とりわけ、「義・聖・愛」は、「三つで一つ」の関係にあります。「義」は不義・罪を裁き、「聖」は汚れ・不純を退けます。ですから神は、罪人を「裁き退け」ねばなりません。それは、「死」を実行することです。これだけ聞くと、神には恐れを感じても、愛を感じることはできません。

神がそれほどまで、「義と聖」に固執するのは、「愛(アガペー)」の神だからです。愛は、正しさ(義)と清さ(聖)の上に成り立ちます。義と聖のない愛は偽物です。

神の愛は、罪人の罪を御自身が引き受け、罪に下される裁きと死を受け取られました。それが、十字架です。だから、「神は愛です」(Ⅰヨハネ4章8節)。

皮の衣を着けて来る者は、炎の剣の刃(裁き)を逃れ、神と交わるエデンに再び戻ることができます。「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい」(ロマ11章33節)。

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