21章1節
主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
あなたから子が産まれる、との約束は25年も昔のことです。人間ならとっくに忘れ、実行などしませんが、神は実行されました。パウロは神の約束について、「では、いったいどうなるのですか。彼らのうちに不信実な者があったら、その不信実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか」(ロマ3章3節)と。
諸々の宗教では、人や時代が変わる度に約束も変更されます。しかし聖書の神は、人や社会や時代が変化しても計画を変えません。神は、アブラハム夫婦が約束を信じ切れずハガルによるイシュマエルを得る愚行にもかかわらず、彼らを教え、つくり変え、導き、ここに至らせました。
信仰は、私の真実ではなく、神の真実(約束を成就される)を「アーメン(真実です)」とすることです。「彼女(サラ)は約束してくださった方を真実な方と考えたからです」(ヘブ11章11節)。アブラハム夫婦は、自分たちの不真実に意気消沈せず、躓き倒れても、また神の真実に這い上がりました。
友よ。私たちも彼らの信仰を学びましょう。「学ぶ」は「まねぶ(まねる)」から出た言葉と聞きました。
21章2節
サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
神がアブラハムに、子が生まれることを告げたのは25年前でした。あの時、「それは二十五年後ですよ」とは言われませんでした。「いつ」を聞いたのは1年前でした。
なぜ神は、将来起こることの「いつ」を教えないのでしょうか。信仰の迫害を経た中国の老師が言いました。「神が私の将来を明確に告げたら、私はこの道に進まなかったでしょう。なぜなら、20数年間獄中で過ごす姿を神学校に入る前の青年に示したら、信仰を失ってしまったでしょうから(事実、師は23年間労働改造所で過ごしました)」と。
25年後とわかれば、多くの人は信仰を失うでしょう。それは、いのちは、今、呼吸することで今日を、今日を生きて1週間、1ヶ月、1年、25年と続きます。25年後に呼吸するのでなく、今の呼吸が25年間続くのです。
仮に、主の再臨が25年後だとするならば、24年間は油断し、世を愛する思いに負けます。その間に、霊の息は止まります。ですから、主は「いつ」を言われません。
友よ。今の一息(霊の呼吸)が、25年後も肉体が絶えて後も、あなたのいのちです。
21章3~5節
アブラハムは、…サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。…その子イサクが生まれたときは百歳であった。
神がアブラハムの100歳の時に子を授けたことに、神のメッセージを見ます。神のあまりにも大きな恵みに、彼は子にイサク(彼は笑う)と名づけました。
「イサク」は、アブラハム家の後継ぎを超え、永遠の御国の世継ぎ、「永遠の命」を意味します。だれでも、「永遠の命・救い」なるイサクを必要としています。しかし、100歳と90歳の老夫婦に子を産む能力がないように、人は自分の能力で「永遠の命(イサク)」を「作る(産む)」ことはできません。人にできることは、神が作ってくださる救いと命(恵み)を受け取る信仰だけです。
「100歳」とは、「人間の可能性、100パーセント0(ゼロ)」のメッセージです。救いは、人の業(行い・努力・血筋・能力・健康…)は100%(100歳)役立ちません。また、それは人の業、100%ゼロと同時に、100%神の業で救われることを表わします。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ロマ3章24節)。
友よ。あなたにも神の子の命、永遠の御国の世継ぎ、イサクが与えられています。
21章5節
アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。
100歳とは「人間の可能性ゼロ」の意味でした。アブラハムは、イサクを得る「ゼロ」になるまで25年、否、100年もかかりました。これは、私たちの大切な霊的教訓です。
人には、神の恵み(イサク・永遠の命)を受け取る実力、すなわち「イサクの父」になる準備が必要です。それは、主に全く依存する信仰の訓練です。訓練は、何かを学び、身に着け、成長することと反対側にある、「試練」という姿でやってきます。試練によって、自分の力がくじかれ、行き詰まりと失望を受け取り、神を求めさせます。そこで自分の可能性ゼロを知り、ひたすら神を待ち望むようになります。
神の栄光は、目の不自由な人に(ヨハネ9章)、死んで四日経ったラザロに(同11章)、一晩中なにも獲れない漁師に(ルカ5章)、石打される絶望の女に(ヨハネ8章)現されました。それは、彼らが神により頼む以外、何もない状態「100歳・0」になった時です。
友よ。あなたは主の前で何歳でしょうか。主はあなたに、一日も早く「100歳(人間の可能性ゼロ)」になって欲しいと願っておられます。
21章9節
サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。
母が違っても、イシュマエルとイサクは兄弟ですから遊ぶのは当然です。しかし、サラはハガルへの憎しみから、彼女の子イシュマエルの一挙一動が気に入りません。 人の深い喜びと悲しみは、愛の領域にあります。妻には、自分の夫にもう一人の女がいることほど深い悲しみはありません。しかし、人間同士の愛憎を超え、霊的領域における摩擦は、より深い不調和を生み出します。
イシュマエルとイサクの異母兄弟は、一人の中に混在します。先に、肉の親から生まれ、神を知らずに成長した兄的存在のイシュマエル。後に、神の霊により生まれた後継ぎの弟的イサク。両者の関係は、早く生まれた兄(肉)が弟(霊)をいじめるように、両者に一致はありません(ガラ4章29節)。
パウロは自分の中の霊の戦い…肉と霊の主権争い…を経験し、肉に支配される呻きを、「私は本当にみじめな人間です」(ロマ7章13~)と記しました。しかし、「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放した」(同8章)と言いました。だから、恐れないでください。
21章10節 ①
「このはしためを、その子と一緒に追い出してください。…私の子イサクと一緒に跡取りになるべきではありません。」
自分が夫にハガルを差し向けた責任も忘れ、「追い出せ」と言うサラの提案に呆れます。
しかし、サラの冷たい提案は、「イサクが後継ぎでイシュマエルではない」との神の御心に適ったものです。また、今はハガルを自分から遠ざけているにしても、ハガルをサラと一つ屋根の下に置くことは御心でありません。
「追い出せ」は「感情」で、「追い出さない」は「理性」です。アブラハムは、感情ではハガルとイシュマエルを追い出せません。でも、神の御心は彼らを遠ざけることだと分っています。彼は、「感情」と「理性」の間で悩んでいます。それは、私たちの信仰生活にある、「肉」と「霊」の関係にも起こります。
この問題の解決は、「私の」を「神の」へ移すことです。それは、ハガルとイシュマエルを非情に捨てるのでなく、「神は神を愛するもの(御心に従う者)と共に働いて、万事を益にしてくださる…」(ロマ8章28節)と言われたお方に責任を移すことです。その後の結果を見ると、追い出したことでこの家族の長年続いた憎しみが…(一時は悲しみましたが)…両者とも祝福されました。
21章10節 ②
「このはしためを、その子と一緒に追い出してください。…私の子イサクと一緒に跡取りになるべきではありません。」
アブラハムは、かつて妻の声を聞いて過ちを犯しました。そこでハガルを追放しましたが、なお十分な解決がついていませんでした(16章)。罪(ハガル)を解決しても、罪の結果(イシュマエル)が残っていたからです。
私たちは、主に罪を処分していただくと同じく、罪の結果も処分していただかねばなりません。罪の結果を自分で処理しようとすると、元の罪に戻っていきます。それは、イシュマエルとの関わりが、ハガルとの関わりの復活につながるからです。
ギデオンは、捕虜にしたミデアンの2人の王を殺すよう息子に命じましたが、息子はできませんでした(士師8章参照)。息子は愛情深い若者だったのでしょうか。息子に加担したくなりますが、そうではありません。彼は罪を罪として処断できなかったのです。
決断できないでいる友よ。少しのパン種が全体を支配します(Ⅰコリ5章6節参照)。ヒューマニズム的愛の危険性に気づいてください。罪の結果を大きなものとしないために、あなたのイシュマエル(罪の結果)も、主の御手に委ねて聖別していただいてください。
21章12節
「(イシュマエル)のことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。」
神は、アブラハムに妻の非情な提案を受け取るよう諭します。言葉以上に語る人が重いときと、言葉が人より重い場合がありますが、それ以上に重いのは神の御心か否かです。
サラは、自分の言葉に責任をとるつもりがないからこそ、非情な言葉が言えます。語る言葉の責任を負う人は、人の命を左右することを軽はずみに言えません。ここで神が、「ハガルとイシュマエルを追い出せ」と言うのは、彼らの責任を御自分が負う覚悟だからです。
アブラハムは、サラの声でも、自分の思いでもなく、神の御心に従いました。そして、「はしための子も、わたしは一つの国民にしよう」(13節)と語る神に、自分の子イシュマエルとハガルを手放し(委ね)ました。
友よ。自分で決断も行動もできない苦しさに、体が震える時があります。その時、「あなたの荷を委ねよ」(詩55・22節)と言われる主に、力を振り絞ってでも委ねてください。自分で負う責任は、背中で重石となり、あなたをつぶします。しかし、神に委ね負わせた責任は、やがて翼になって、あなたを主へ引き上げます。
21章16~17節
彼女は子どもの方を向いて…泣いた。神は子どもの泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。
(新共同訳)追い出された母と子は、行き場がなく泣いています。でも、彼らがアブラハム家に留まっていたら、四六時中妬みと憎しみが交差する地獄の日々が続いたでしょう。今、親子は嵐から抜け出しました。しかし、そこはだれ一人助ける者もいない孤独の砂漠でした。
女主人サラとの間に続いた戦いに、解決の糸口はありませんでした。人間同士の争いに解決がないのは、相手の言葉や態度に救いを求めることが間違いだと気づかないからです。
人に焦点を合わせると神が見えなくなり、人に救いを求めると神の声が聞こえなくなります。「みなしごとやもめを支えられる(神)」(詩146・9節)とは、「弱い者に愛を注ぐ神」との意味です。弱い者とは、頼れる人がだれもいない人のことで、その人は切実に神に求めます。そのハガルとイシュマエル親子の泣き声に、神は耳を傾けられます。
友よ。人に期待し過ぎることを止めましょう。そして、助けるものがなく、神に向かう以外に生きる術を失った、「みなしご(イシュマエル)」と「やもめ(ハガル)」が泣き叫んだように、救いの神、主イエス・キリストに、祈り求めてください。
21章19節
神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。
何かが見えるためには、いくつかの条件が揃う必要があります。それは、方向が合っていること、障害物がないこと、見る目を持っていること、などです。
昨日までのハガルの目は、主人夫婦に向き(方向違い)、憎しみ(障害物)に遮られ、運命への反発は神の光を拒み(霊の目を失う)ました。しかし、荒野では神を求める以外ありません。神はこの時を待って、早速ハガルの耳を開いて御声を、目を開いて井戸を見せました。じつは、前記した見えるための三つの条件より、さらに大切な条件があります。それは、「光がある」ことです。
「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見る」(詩36・9節)のです。これこそ、「神がハガルの目を開かれた」出来事でした。
友よ。神を見るための光は、すでにあなたの内にあります。「光(聖霊の内住)によって、光(主イエス)」が見えます。その光が井戸の水(救い・逃れの道・平和・癒し・希望…)を示します。光によって示された井戸の水を、今日も飲んで元気をだしてください。
21章22節
アビメレク…がアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」
一生の歩みには、大きな出来事よりも淡々とした日々がより重要です。人生の節目は、日々の歩みによって作り出されるといえます。アブラハムはこの頃、長い間アビメレクの領地に居候する身分でした。
アビメレクと軍の長が、領地に滞留するアブラハム一族を観察した印象は、「素晴らしい」の一言でした。その理由が、彼らの神にあると感づきましたが、残念なことに少し勘違いをしています。それは、「あなたが何をしても、神が…」と言って、アブラハムをほめていることです。
事実は、「神があなたと共にいて導くので、あなたが何をしても祝福される」が正解で、アブラハムの素晴らしいわけは神にあります。「神」と「あなた」のどちらが主客かは、見えにくいものですが、霊の世界では最も重要なことです。
主がペテロに、「私に従え」(ヨハネ21章19節)と強く命じたのは、彼を祝福するためには、上に立ちたがる彼から、主権を取り上げる必要があったからでした。「あなたが何をしても」は、他宗教の人間中心御利益信仰と同じになります。
友よ。今日も、「神が」と「私が」の二つの言葉に気をつけて歩んでください。
21章23節
「それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。」
自分の土地に居候する者を邪魔に思うのが普通ですが、ここでは両者の立場が逆転し、領主が居候に懇願しています。それが、アブラハムの勢力がアビメレクの立場よりも強くなったからでもなさそうです。
アビメレクの提案は、アブラハムと共におられる「神を恐れた」ことと、彼らの存在が「自分たちの利益」になったからです。さらに、彼らが「寄留者」だったからです。寄留者は「天国」に行くことが目的で、地上では「神のみ」を所有とする無欲な者たちです。「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、魂に戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい」(Ⅰペテロ2章11節)。世に無欲な寄留者は、人々の敵どころか、むしろ皆から信頼されます。
あなたは人々から、「請われる」「退けられる」のどちらですか。人に請う者は人から退けられ、神に請う者は人から請われます。アブラハムが、「…固い基礎の上に建てられた都を待ち望んで…」(ヘブ11章10節)生きたように、人生の目標を天に定めて歩んでください。すると、人々が寄ってきます。
21章25節
アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。
だれでも人に譲れないのは、「いのち」に関することです。プライドがいのちの者はそれが傷つけられると怒り、財産がいのちの者は奪われそうになると死に物狂いで反撃して守ります。
アブラハムの地上でのいのちは、「神」です。神のいのちの水を汲み上げるためには、「井戸」が必要です。神のいのちを受け取る「井戸」こそは、彼が絶対譲れないものでした。だから、寄留者として世に無欲に生きてきた彼でしたが、井戸の権利が奪われたことには大胆に抗議しました。
寄留者は、世に無欲ですが、永遠のいのちの井戸には「貪欲」です。なぜなら、寄留者が世に無欲なのは、世捨て人だからではなく、豊かないのちを神から受け取るので、世へ求める必要がなくなるからです。我慢でなく、満たされたゆえの「無欲」が寄留者です。
友よ。あなたは神のいのちを汲み上げる井戸(聖書通読・祈る時間・礼拝・集会…)にどれほど貪欲になっていますか。「天に積まれる宝」と、死ぬまでしか通用しない「地上の宝」の価値を比べてください。この世に無欲になれるほど、神の霊の井戸から汲み上げる、いのちの宝に満たされてください。
21章33節
アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。
アブラハムは、アビメレクとベエル・シェバで井戸の所有に関する契約を結びました。一族は、その井戸の水で日々を営み、余る水は柳の木を育てるために使いました。
平和の日々に祈るのは、嵐の日に祈るよりも困難です。平和が続くと、始めは祈っていても、いつしか途絶えがちになり、やがて止みます。そんな誘惑に負けず祈り続けられたのはなぜでしょうか。
そのカギは、柳の木を植えたことにありそうです。井戸の水(神のいのち)を汲み、柳の木(人)に分ける(伝道・仕える・捧げる)には、祈らずにはできません。人々に主を伝える者には祈りが湧き、自分の救いで満足する者の祈りは涸れます。
受けて流す(与える)ガリラヤ湖は魚を育てますが、受けて与えない湖は命のない死の海(死海)になります。平和な日々こそ、柳(他者)に水を注ぐ(恵みを分ける)時です。それが、あなたの祈りを豊かにします。やがて、恵まれて成長した柳の木は、あなたの試練のとき、あなたを執り成して祈る守りの陰となって恵みを返してくださいます。主の恵みは循環します。