19章1節
ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり…、立ち上がって…伏し拝んだ。
かつてアブラハムによって救われた町は、甥のロトを歓迎し、「門に座る者」にしました。それは、指導者や長老、あるいは議員としての地位を与えられていることでした。しかし、彼の心の底には、「これでいいのか」との自問自責が常にあったことでしょう。
この自責の念は、イエスを主と信じながら、この世を愛する人から消えない思いです。「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」(使徒23章1節)と、パウロと共に言える者はほとんどいません。しかし、迷える人・ロトの痛む良心は、目の前に現れた方がだれであるかを見分け、立ち上がって迎え、ひれ伏しました。
友よ。あなたの周りにいる主から離れたロトも、心が痛みながら立ち上がりたいと願っています。かつて自分を出し抜いて利益を得た人、神の恵みを受けながら世に戻った人、兄弟姉妹の愛に対し悪口を言いふらした者…。でも、彼の本心は神の訪問を待っています。そのために、アブラハムなるあなたの愛と祈りの助けを必要としています。
19章2節
「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り…お泊まりください。」
人生の歩みの中で、「これが自分の人生を変えるのでは?」と思う、強い促しを感じる時があります。ロトは、人の姿をした御使いを見た時、「彼らが、私の痛み続けた20年を変えてくれるのでは」との直感を抱きました。だから、彼らを自分の家に迎え入れました。
多くの人が、自分を変えるチャンスを待っていますが、得られずに失望し、いつしか望んだことすら忘れています。人の根本的変化は、創造主との出会い以外にありません。しかし、「この世は自分の知恵によって神を知ること」(Ⅰコリ1章21節)ができません。神がいない世界で人生の変革はできません。
ロトに訪れたチャンスは、彼の強運でなく、アブラハムの祈りが、御使いをロトの心に向かわせました。私たちが主に出会ったのも、自分の何かでなく、だれかの祈りに神が動かされたからです。「神は御心によって、宣
教のことばの愚かさを通し、信じる者を救おうと」(同節)されます。その「宣教の愚かさ」の最初が、「ロトのためのあなたの祈り」です。
恵みの中にいる友よ。今日も、救って欲しいロトたちの名前を上げて祈り続けましょう
19章5節
「今夜おまえの所にやって来た男たちはどこにいるのか。…彼らをよく知りたいのだ。」
トルストイの短編・「靴屋のマルチン」で、夢の中でりんごを盗んだ子どもや、貧しい老人が現れ、「マルチン、それは、わたしだ(神)」と語りかけます。他者に行なう行為は、神への行為だ、と作者は諭します。
町の男たちが、ロトの客人を「知りたい」と言った「知る」は、男色を指す言葉だとも聞きました。彼らがロトの客を、「男たち」と言いますが、本当は主の御使いです。ですから、彼らの淫らな行いは、神への行為でした。
モーセの十戒の第五~十戒…父母を敬え・殺すな・姦淫するな・盗むな・偽るな・貪欲であるな…は他者を愛するための言葉ですが、これらは人への行為を超え、神に直結します。
しかし、人を愛せない者が、神の前に正しくなどありえない、と諦める必要はありません。それは、「きよい人には、全てのものがきよい」(テト1章15節)とある「きよい人」とは、「神に対してきよい」人のことです。他者を愛せなくても、「イエスの血」により神にきよくしていただけます。すると、全てのもの(他者への思い・計画行動…)も正しくされます。
友よ、今日も「まず神から…」です。
19章8節
「私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。…好きなようにしてください。」
ロトは、家に迎えた男たちを、欲情に燃えるならず者から守るために、自分の2人の娘を代わりに差し出そうとしています。親が娘を差し出す、という聖書の中で読むのにつらい箇所の一つです。血迷ったかに見えるロトの行為を理解する鍵は、神と世の狭間で苦しみ続けた歩みにあります。
今、二人の御使いと出会い、彼の心の闇が吹き消されました。今のロトには、神の御使いが、娘以上に大きな存在となりました。
ある家族と出会いました。夫が死を宣告された病の中で主に出会い、「彼」は召天するまでの時間を、神に献げる約束をしました。間もなく、家族を置いてトラクト伝道へ全国を巡りました。そして、主に召されるまでの8年間、家族の下へ戻ることはありませんでした。
友よ。「ロト」と「彼」は不条理でしょうか。いいえ、「神の国を先ず求めよ」(マタイ6章33節)には、これほどの感動と決断が必要な時があります。家族を捨てることは、責任放棄ではなく、主を第一にした結果です。その結果、ロトは娘を救い、「彼」の家族は今も祝福された信仰家族として(高知県在住)、神の約束の恵みを受け取っています。
19章11節
家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな…、戸口を見つけるのに疲れ果てた。
暴徒に迫られるロトを、御使いは手を伸べて家の中に引き入れました。暴徒は家に押し入る戸口を探しますが、主が彼らの目を閉ざしたので見つかりません。ロトの家の中には御使いの救いの光が輝き、外は情欲という闇が人々の目を塞いでいます。その闇とは、罪と知りつつ悔い改めない心です。
ソドムは、20年前にアブラハムに助けられた時(14章)、神の光を見ました。そして今、御使いが町を訪れたことは、神が彼らに用意された恵みの光です。しかし彼らは、悔い改めることなく、むしろ神に反逆します。
暗闇に光が輝くのも事実ですが、「私たちは、あなたの光のうちに光を見る」(詩36・9節)も真なり、です。日々の小さな出来事の中に輝く、神の恵みの光を無視すると、暗くなり(周りが暗く)、闇になり(心の闇)、暗黒(魂の闇)になります。
反対に、その光を見続けると、小さな光で、大きな光が見え、大きな光で特大の光が見えてきます。光とは、悔い改める心です。悔い改めない心には、救い、希望、解決…の戸口が見つかりませんが、悔い改める心には主が光となられます。
19章12節
「あなたの身内の者がここにいますか。…婿や…息子、娘、…身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。」
御使いは、ロトに身内の者を皆連れ出すように命じます。しかし、身内全員が神を信じてはいないようです。特に婿たちには、主がこの町を滅ぼすとは冗談にしか聞こえませんでした。滅びを免れるのは、「信じる人」なのに、なぜ御使いは「皆」と言うのでしょう。
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(使徒16章31節)のみことばのすぐ後に、「彼とその家の者全部に主のことばを語った」(同32・33節)とあることが大事です。
あなたが救われたら、自動的に家族が救われるのではありません。あなたが救われることで、家族は「神のことばを聞き、神を観るようになる」から救われるのです。神は、ロトの家の不信仰な者にも、この出来事を通して言葉(御心)を聞かせ、御業(現実)を見せて救う計画です。
友よ。あなたの救いから家族の救いはもう始まっていますから、滅びの町より家族を皆、連れ出してください。それは、淡々とみことばを読み、祈り続ける、あなたの日々の生活のことです。気負う必要は少しもありません。
19章14節
「出て行きなさい。主が…滅ぼそうと…。」…婿たちには、それは冗談のように思われた。
「この町が滅びるから出よ」との強い勧告に、ロトの家族はためらいます。御使いはさらに強く促し、彼らを救い出そうとしますが、なお動きません。動かない家族を強制することに、ロトもためらっています(16節)。それは、ロトも妻も娘と婿たちも、余りにも長くソドムと一体となって生きていたからです。
イエスが来臨された時、人々はイエスを神の子と信じられませんでした。主は彼らに、「さもなければ、わざによって信じなさい」(ヨハネ14章11節)とまで言い、多くの奇跡や不思議な業を見せました。人は自分に都合のよいことは信じ、都合の悪いことは信じません。都合のよいこととは、自分のビジョンや欲求との一致で、悪いこととはその反対です。
世界は、人のビジョンでなく、神のビジョンによって動き、とくに「生・死」は神の御手にあります。神は寛容をもって、冗談と受け止め、ためらう者に、「さあ、来たれ。論じ合おう」(イザヤ1章18節)と言われます。
あなたの「ロトの娘夫婦」に、時にはためらわないで福音を語ってください。彼らと論じるのは、神の代理人のあなたを置いて他にいません。
19章16節
主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。
御使いの一人がロトと妻を、もう一人は、ためらう二人の娘の手をつかみ、強引に町から連れ出しました。だれも現在の生活スタイルを変えたくありません。そして、気が向いたら自分から出て行くから、と居座ります。
しかし、神にはこの先にある危険が分かり、人の自由に任せることができないので強制的に連れ出します。それは、自分の願いの挫折・病・家族の問題・経済的問題…など、自分の意に反することが起こる時、神があなたの手をつかみ、一番安全な所に連れ出す途中ではないでしょうか。
その時は、悲しみや恨みや憎しみや失望など、苦々しい思いで心は一杯です。パウロも、「あなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども」と言い、「神のみこころに添った悲しみは、救い…を生じさせます」(Ⅱコリ7章8・10節)と書きました。
友よ。不可解でも主の御手を離さず、御心に添う悲しみを受け入れ、もう少し引かれるままにしてください。それが神のあわれみで、もっと大きな災いの外(町の外)へ連れ出したのだと分るのは、もう少し後です。だから、泣きわめきながらでも、もう少しついて行ってください。
19章16~17節
「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。」
主は、ロト夫婦と娘たちを町の外に連れ出し、「いのちがけで逃げよ、後ろを振り返るな、低地でなく山に逃げよ」と命じ、彼らの手を離しました。
親に強引に手を引かれていた幼少時代より、自分の判断に任せられる青年期の方が難しいように、信仰も試練の中にいる時よりも、解放された後の方が難しくなります。
試練の渦中では、出来事に圧倒され、自分の考えを挟む余地もなく、ただ御手に引かれるだけです。「山へ逃げよ」と聞いた今、ここからは自分の決意と足で進まねばなりません。
信仰は、自分の自覚で神に従うことですから、主に強制(試練)されない環境で、みことばに従い続けるのは難しいものです。
かつて、信仰の初めの頃、あるいは試練の最中、困難に比例して、主への熱い思いがあったのに、最近は「あまり、なにも…」と無感動になっていませんか。町の外まで出た安堵から、自分のことだけ、になっていませんか。
主は、あなたにもロトと同じに、「信仰の高嶺へ」と命じられたことを忘れていませんか。「どう…受け、聞いたのか…それを堅く守り、また悔い改めなさい」(黙3章3節)。
19章19~20節
「しかし、私は、山に逃げることができません。…あそこの町は、のがれるのに近いのです。どうか、あそこに逃げさせて下さい。」
ロトは、「高い山に逃げよ」との神の勧めに、山ではなく、近くの小さな町に行くことを申し出ます。彼は、体だけソドムから抜け出ましたが、魂はなおソドムにいます。このような人は、「頭だけのクリスチャン?」
「高い山」とは、神を礼拝する祭壇が築かれ、神の家族アブラハムがいる所です。それは、「高地」である以上に「霊の高嶺」です。
ロトは、住み慣れた低地ソドムの「快楽レベル」から、神を礼拝する高地「聖なるレベル」へ一気に登る自信もありません。そこで彼は、低地と高地の間にある小さな町を選び、そこに住み神を礼拝すると言います。
ロトは、神を信じていますが、「まだ乳ばかり飲んでいるような者」で、「義の教えに通じてはいない…幼子」(ヘブ5章13節)のようです。
友よ。栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられるのは、「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリ3章18節)から、自分のレベル(行い)でなく、神のレベル(恵み)で考えてください。山へはあなたの足でなく、ロープウェイ(神の恵み)で登るのですから、恐れず恵みの高嶺に向かってください。
19章24節
そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天のところから降らせ、…低地全体と、その町々の住民と、…滅ぼされた。
この箇所は、罪に対する最後の審判の例として聖書の中でも引用されます。だれもがこのことを恐れ、「いつ」起こるかに関心を持ち、多くの預言?も出回っています。しかし大事なのは、裁きが「いつ下るか」ではなく、硫黄が示す「裁きの意味」を知ることです。
これが罪の裁きの火ならば、その硫黄の火は、二千年前にゴルゴタの十字架のイエスにすでに降りました。聖いお方、主イエスは、情欲に溺れたソドムとゴモラの市民や暴徒、救いを冗談と笑った婿たちの身代わりに天からの硫黄の火で焼かれました。
しかし、情欲の暴徒や冗談と笑い飛ばした者こそ、実は私たちです。「まことに、彼(イエス)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」(イザヤ53章4節)。
友よ。イエスは、私たちを町の外まで連れ出すと、御自分はソドムの町に戻られました。…「主よ、いずこへ(クォー・ヴァディス)」。「あなたの罪の代価を払いにローマ(地獄)へ」…そして、裁きの硫黄の火を待ちました。私たちを愛して、愛して、いるから!
19章26節
ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。
イスラエル旅行中、ガイドさんが、「皆さん、あれが塩の柱になったロトの妻です」と死海の道路沿いの丘の突起物を指差します。これは事実?でないにしても、ロトの妻は、神に従いきれなかった人の代名詞になりました。
この家族は、伯父アブラハムの生き様を見、敵の侵略や、今は神の裁きから救われている最中です。それなのに祝福がないのは、「なんとなく」の信仰家族であって、「これ」というものがない家族だからです。
「もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって」(Ⅰテモテ5章8節)とは真実です。教会の奉仕や役員会などよりも、家庭の祭司としての働きはさらに重要です。
19章29節
神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。
(新共同訳)ロトの家族を裁きから救い出したのは、神がアブラハムを御心に留めたからだ、と言います。神は、御自分の友・アブラハムの心に応えてロトを救い出したことになります。
私たちが受けた救いについても同じです。救いは、自分の求道心もありましたが、それと共に背後で祈る人がいたからです。そして、アブラハムとロトの関係から、自分の求めよりも、背後の人の存在がより大きいことがわかります。なぜなら、霊のことは霊の世界で始まり、霊の世界の戦いに勝利して、現実の出来事となるからです。霊の戦いとは、アブラハムの執拗な祈りでした(18章)。
霊の世界で勝利を得る人とは、神の前に両手を上げる人です。左手は自分自身に対する降参の手、右手は神を信頼し称える手です。両手が上げられてこそ、霊的な祈り手になれます。アブラハムもモーセも、両手を上げて祈りました。「モーセが手を上げている時は…優勢になった」(出17章11節)。
友よ。アブラハムとモーセに勝る執り成し手は、主イエスです。十字架に釘で留められた両手は、今日も明日も、決して下がることがありません。