14章11~12節
彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧を…奪って…。ロトとその財産をも奪い去った。ロトは、ソドムに住んでいた。」
ロトが住むソドムは、敵に略奪され家族もろとも連れ去られ、命の危険にさらされています。しかし、それは降って湧いた災難ではなく、彼らが少しずつわが身に引き寄せたもの、自分が蒔いた種の刈り取りでした。
罪は、最初は手紙を届ける配達人のようです。誘惑の手紙を投げ込み帰って行きます。私がその手紙を捨てれば、それで終わります。しかし、それを読むと訪問客として来て玄関で話しだします。私がその話をさえぎって断ると、帰って行きます。しかし、そこで話を聞くと、私の家に上がり込み客となります。やがて、主人である自分と訪問客は立場が逆転し、彼(罪)が主人(支配者)になり、私は奴隷にされます(ロマ6章16~23節参照)。
ロトは、訪問客の話を聞いても、自分が断れば大丈夫と思ったでしょう。彼は、自分の信仰を過信し、罪を甘く見ました。配達人(罪)を客にし、客を主人にするのは、罪を歓迎する人の肉です。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。世と世の欲は滅び去ります」(Ⅰヨハネ2章15~17節)。
友よ。あなたは「義と神の奴隷」です(ロマ6章)。
14章16節
彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産…人々をも取り戻した。
ロト一族が敵に連れ去られたことを聞いたアブラムは、忠実な家の者318人と共に戦いロトたちを取り戻しました。アブラムは、ロトの為の犠牲を惜しみませんでしたが、ここに信仰の罠も隠されています。
「偽り」という漢字は、「人」と「為(ため)」の合体です。ゆえに「人の為」は「偽り」となります。クリスチャンも、「人の為」という偽りにだまされます。あの人の為、家族の為、教会の為、社会の為、と言いますが本当は「自分の為」ですから偽りです。
その証拠に、人の為になした後に、その人・家族・教会への批判が出てきます。その批判は、あまり自分の為(利益)にならなかったからです。しかし、アブラムの戦いは、「人(ロト)の為」ではなく「神の為」でした。なぜならロト一族の惨状に、神の御名が汚されるからです。
友よ。あなたの祈りと行動の動機は、「何の為」でしょうか。「御名の為」でないことは「自分の為」だと知ってください。自分でなく、「御名があがめられますように」(マタイ6章9節)と祈ることは、全ての行動の動機を聖別することです。
14章17節
アブラムが…王たちを打ち破って帰って後、ソドムの王は…彼を迎えに出て来た。
試練に直面して主を離れた人よりも、試練が過ぎ去った後に離れた人の方が沢山います。アブラムの働きは、ロトを救ったのみか5人の王たちも救いました。戦いから帰ったアブラムを、ソドムの王が早速待ち構えていました。
ソドムの王は、アブラムに感謝を示し、多大な財産の提供を申し出ました。サタンは、「石をパンにしたら…あなたが神であることを皆に証明できる。塔から飛び降りたら…天使たちが支え、あなたが神だと証明できる。私にひれ伏せ…全世界をあなたにあげる」(マタイ4章参照)と、賞賛と実利をもって近づきます。目的はイエスを父なる神から離し、独立した神にし、無力にすることでした。そして次に、自分に服従させることでした。
サタンの策略は、叱責より賞賛、試練より順風を与え、神を不必要とする高慢罪に落し、主イエスから人を離すことです。「他人の称賛によって人はためされる」(箴言27章21節)。「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」(同16章18節)。
アブラムなる友よ。今日もソドムの王の提供でなく、神のことばを受け取り、神の子としてへりくだりましょう。
14章18節 ①
シャレムの王メルキゼデク…。彼はいと高き神の祭司であった。
突如現れたメルキゼデクこそ、イエス・キリストを表しています(へブル5章6節参照)。「イエスは二千年前に生まれた」と語ることは、「それ以前はいなかった」となり、人々の目をさえぎります。
エマオ途上の弟子は、「目はさえぎられて」(ルカ24章16節)同行するイエスがわかりませんでした。 「さえぎる」は、何かを「掴む」の意で、彼らは「十字架で息絶え、墓に葬られた主」を掴み、生きている主が側にいても見えませんでした。聖書に対するつまずきの一つがこれです。クリスマスは主の「誕生日」でなく「降臨日」です。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(ヨハネ8章58節)と主は言われました。従って、アブラハムやモーセや預言者に語ったのは、主イエス御自身でした。
このことを信じるか否は、「旧約と新約」を別ものに、イエスを「神か人か」に分けます。これこそ聖霊の御業です(Ⅰコリ2章10~)。
友よ。イエスこそ、あなたのメルキゼデク、「あなたはとこしえに祭司である」(ヘブル7章21節)お方です。
14章18節 ②
その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持ってきた。
(口語訳)口語訳聖書がこの節に、「その時」を入れているのは賢明です。「その時」とは、ソドムの王の魅力的な提案にアブラムが答えようとした「その時」。アブラムが罪を犯す危険の最も高くなっていた「その時」。神が介入し、アブラムを守ろうとする「その時」でした。
この時、メルキゼデクはアブラムに金銀名誉でなく、パンとぶどう酒「聖餐」を与えました。大祭司キリストから、ぶどう酒(罪の赦し・十字架)とパン(永遠の命・復活)をいただくと、世の王が差し出すものは色あせます。誘惑には、「あれ・これをしない」では勝利できません。
勝利は、心から神を愛する者となることです。人は愛を受けた分だけ、愛する人になれます(ルカ7章47節参照)。「わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」(Ⅱテモテ2章1節)。
聖餐式は、神の愛を知る偉大な恵みです。初代教会の礼拝の中心が聖餐式であったように、神の子たちが集うとき、とくに主の日の礼拝において、毎週行われることを願います。牧師がいなくても、一家の主人が、一家の霊の先人が、だれでも聖餐式はできます。
14章20節
「あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」
アブラムは、外部の敵に勝利したばかりか、内なる敵(高慢・賞賛・世の欲)にも勝利できました。それを見たメルキゼデクは、右の言葉をもって父なる神を称えました。しかし、実際にアブラムを助けたのは、父である神でなく、メルキゼデクなるイエス御自身です。主は御自分の働きなのに、父に栄光を帰しました。
アブラムがこの勝利を自分のものとするならば、外部の敵に勝利しても、内側の敵・肉に敗北します。そして外側の見える勝利は、見えない内側の敗北によって失います。
目に見える世界は、見えない霊の世界から始まりますから(ヘブル11章3節参照)、見える世界よりも、霊の世界のことがより重要です。それは、賜物の大小や種類よりも、父…御子…私、の権威と秩序が正しくされることです。
愛する友よ。「神に栄光を帰せよ」とは、あなたが神の前に卑屈になることではなく、むしろ正しい立場を獲得することです。そこに、安全・充実・生きがい・愛が生まれます。しかし、自分を誇ると、「苦い根が芽を出し」(ヘブル12章15節)、自分自身を失うばかりか、周りの多くの人をも汚します。
14章23節
「くつひも一本も…取らない。…『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」
ソドムの王は、この地域の国々を救ったアブラムの功績に無制限の報酬を提供します。しかしアブラムは、当然得てよい報酬なのに、「糸一本、靴ひも一本」をも受け取ることを拒みます。その理由は、自分が「あなたによって富んだと言われたくない」からでした。
ある人が信仰の秘訣について、「クリスチャンは世で生きるが、世を自分に入れないこと」と言いました。アブラムは、報酬を受けることでソドムの王に影響されることを避けました。それは、この世で神の子として生きる自信が彼にあったからでなく、むしろ自信がなかったからです。彼は、富や権力や賞賛に、自分がいかに弱いかを知っていたので、「靴ひも一本」も頑固に拒否しました。
「自分自身に・信仰の弱さに・サタンに・誘惑に・金銭に・健康に・人々に」対する恐れは、クリスチャンの武器です。アブラムも、ギデオンも、ダビデも恐れを持ちましが、この「恐れ」が神に対する「畏れ」を生み出し、これが世に勝つ勝利の信仰となりました(Ⅰヨハネ5章5節参照)。
友よ。今日も「恐れ」と「畏れ」を持って進みましょう。
14章24節
「若者たちが食べてしまった物と、私といっしょに行った人々の分け前とは別だ…彼らの分け前を取らせるように。」
ここに、アブラムと彼の家の者たちとの麗しい関係を見ます。互いを認め合うことが信頼で、それは信仰も同じです。相手を信頼できなくなるのは、自分の描く理想の人になってくれないから、ではないでしょうか。
教会では、皆が「一つ・愛・信仰」で、という言葉によって混乱が起こります。それは、聖霊による一致と、人間の一致を間違えるからです。人間の一致は、組織や利害や権力による一致で、聖霊による一致はいのちによる一致です。それは、皆が所属する教会の歴史、組織、教理、兄弟姉妹に対する関心以上に、今、神から教えられ導かれることに心を集中することです。
皆の心を合わせる一つでなく、キリストにあって一つを目指すことです。教会の組織や兄弟姉妹に無責任になるほど、聖霊に信頼することです。
アブラムは、自分の信仰と若者たちの信仰を分けています。「信仰から出ていないことは、みな罪です」(ロマ14章23節)から、それぞれの信仰で歩むべきです。
主は、ペテロはヨハネと違うことを強調され、ペテロに「あなたは、私に従いなさい」(ヨハネ21章19節以下参照)と言われました。自分で相手を変えず、神が彼を取り扱うのを、祈りつつ待つことです。