1章1節 ①
初めに神が
この「初め」は、「すべての初め」という意味です。初めがなければ今も未来もありません。神がいなければ、私の過去も現在も将来もないことになります。私たちは偶然に人となり、生きて死んでいく者ではありません。
私の初めは、神から出発しました。神がいたので私がいるのです。だから、過去も今も将来も、神の中に私の存在があります。
人生の意味を作るのは、私ではなく「神が」作り、「私に」与えてくださいます。生きる力は、意味があると思えるから出てきますが、意味のないところには出てきません。「使命の方が我々を探しているのであって、我々の方が使命を探しているのではない」(ダグ・ハマーショルド著「道しるべ」より)。
今日から、あなたの人生の方向を、自分で生きることから、生かしてくださる神に変えてはどうでしょうか。あなたの本当の父である神は、あなたにみことば(聖書)を通し、御子イエス・キリストを通し、助け主なる聖霊によって必ず出会ってくださいます。出会えない者は一人もいません。なぜなら、あなたが今ここに存在し生きていることこそ、神がおられる何よりの証拠だからです。
1章1節 ②
神が天と地を創造した。
天地の創造を、ある人は百億年前と言い、別の人は一万年も経っていないと言います。また、人の創造についても、何億年の時間の中で進化した、と言う人がいれば、一日だけで存在した、と言う人もいます。真実は、神以外だれにもわかりませんが、「神が全て(天と地)を創造された」が一番大事な私たちへの聖書のメッセージです。
あなたは「長い時間・偶然・適者生存」の絡み合いによって進化し、たまたま、ここにいるのではありません。神があなたを必要とし、この時を共に過ごすために、あなたを創造されたのです。それは、私たちを「御前で聖く、傷のない者」(エペソ1章4節)にするためでした。「聖く傷がない者」とは、「神と交わることのできる者」のことです。
交わるためには、相手を知り、自分を知らねばなりません。相手は創造主で聖なる神ですが、私は罪に汚れた者です。しかし、万物の「創造主」なるこのお方は、私を聖く傷のない者に、日々「再創造」することができるお方です。
だから祈りましょう。「父なる神よ、今日も私を創り変え、御前に聖く傷のない神の子として歩ませてください」と。
1章3節
神が「光よ。あれ。」と仰せられた。
何もないところに自存(自分自身で存在)していたお方が、「光よ。あれ」と言われました。このお方は、御自分を「ヤーヴェ」(注・正しい発音はだれもわかりません)と名乗られました。
その名の意味は、「わたしはある・有って有るもの」ともいい、「無」から「有」を造る「創造主」です。やがてイエス御自身が、「わたしはある」(ヨハネ8章24・28・58節・13章19節・新共同訳)と同じ名で人々に御自分を現されました。
「光」…それは無比の至高を保ち、いのちを与え、育み、完成する慈しみに満ちています。いつからか、神の光の中にいた人々を、「罪と死」の暗黒が支配するようになりました。しかし、あなたを造ったお方が、あなたに対して再び、「光よ。あれ」と宣言されます。
このお方のことばには、いのちと力があります。なぜなら、神の「ことば(レーマ)」は、必ず「出来事(レーマタ=レーマの複数)」になるからです。
友よ。あなたの力で生きるのではなく、このお方があなたのいのちと力になってくださいます。今日もこの方の光(みことば)の中を歩めばつまずくことはありません(ヨハネ11章9・10参照)。
1章5,8,13,19,23,31節
こうして夕があり、朝があった、第・・日。
神は秩序の神です。夕を造り、次に朝を造り、第一日の次に第二日を、その次に第三日を造りました。神は、今日は昨日の後に必要な一日、明日は今日の次に必要な一日、として備えました。自分で自分の一日を造ろうとすると、神の秩序に逆らうことになります。それは、川上に向かって泳ぐように、労多くして結ぶ実の少ない人生となります。
今日は、あなたにとってどんな日でしょうか。爽快(そうかい)、憂うつ、希望、失望…。あるいは複雑に絡み合う表現のできない一日でしょうか。しかし、この日はあなたが開いた一日ではなく、あなたを造り、支える主が、あなたのために開かれた大事な一日です。
友よ。自分で「今日」を支配してはなりません。なぜなら、「聖なる方、真実な方…彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない」(黙3章7節)お方がおられるからです。
創造者で支配者なるお方は、「仕えるために来た」(マタイ20章28節)と言われる神です。あなたの一日を開いたお方は、責任をもってあなたの「今日」を導かれます。このお方に仕えていただいてください。すると、川の流れの力によって進む一日になります。
1章25節
神は見て、それをよしとされた。
古代の人々は、太陽が地球を回っていると考えました。やがて、コペルニクスが地動説を唱え、アインシュタインが宇宙を解く鍵を発見し、ハッブルが宇宙の膨張を見、電波望遠鏡が1950年代に発明され…。今は宇宙の果てまで探り出し、原子核の中まで知ることができるようになりました。
しかし、どこまで知ったら、「よし」として満足できるでしょうか。人は、「もっと、もっと…」と叫び続ける、「くれろ、くれろ」という蛭(ひる)の娘のように満足することを知りません(箴言30章15節参照)。この不満は、自分とこの世の基準でものごとを見ているからです。
確かな基準は、神の見方です。「義(ただ)しい」とは、神が「よし」とされることを言います。だれでも自分を「よし」とするために自己中心になり、あるいは他者に求めて争い、失望し、裁き合います。しかし神は、「イエスを信じる者を義(よい・よし)」(ロマ3章26節)と認めました。
愛する友よ。だから、はばかることなく、「私はイエスのゆえに『よし(義)』とされた者だ」と宣言してください。他人や自分でなく、神に評価を求めてください。すると神の義の光があなたを照らし、「私は…です」と確信を持って歩めるようにしてくださいます。
1章26節 ①
そして神は、「われわれに…」
神は、お一人ではありません。「われわれ」と啓示されたように複数です。「神」と訳す言葉「エロヒーム」も複数形です。
神は三位一体の神です。「父」と「子(イエス)」と「聖霊」なる神は、各自が独立していても一つです。それは、父は御子イエスのため、御子は父のため、聖霊は父と子のために自分を捨てて仕え合うので、三つの格(独立した存在)でも「一つ(思い・目的・考え・行動)」です。ですから、神は「一人」でなく「唯一」と表現します。
三位一体の神を、「光・熱・動力」や「水・氷・水蒸気」などで表わすのは、「一位三体(一つが三つに変化したもの)」となり間違いです。人間同士は、互いに仕え合うのでなく、仕えさせる罪に支配され一つになれません。二人で一つが愛であり、愛に「いのち、喜び、感謝」があります。反対に、二人が相手を自分に仕えさせて奪い合う、二人で二つの罪の関係には、「憎しみ、怒り、争い」が絶えません。
人の救いは、父と御子と聖霊の交わり(ヨハネ17章21節参照)に入ることです。
友よ。あなたは、神が「われわれ」と言われる「神の家族」です。とっても大切な「神の家族の一人」です。
1章26節 ②
神は、「…人を造ろう…」と仰せられた。
神が宇宙を造られた目的は、そこに「人(あなた)」を存在させるためでした。ではなぜ「人」なのでしょう。その答えは神の名前、「エロヒーム(われわれ)」の中に見つけることができます。
「神は愛です」(Ⅰヨハネ4章8節)のみことばに、神の本質を見ることができます。愛は、愛し愛される両者の「関係」です。父は子を愛し、子は父の愛を受けますが、いつまでもこの立場だけではありません。
他者に愛された者は、他者を愛することを求めます。父の愛を受けた御子イエスの愛する対象として、私たちは造られました。彼は私たちを「私の妹、花嫁」(雅歌5章1節)と呼び、私たちは主イエスを、「主(夫)、長兄(同じ父の子として)」と呼ぶことが許されています。
あなたの存在が、アメーバーからサルを経て、親から生まれた者であるならば、生きる意味はどこにあるでしょうか。出生の意味を知らないなら、どう生きて、どこへ行くかもわかりません。神があなたを造ったのは、御自身の子とするため。次に、御子イエスの花嫁・妹として愛するため。さらに、隣人と愛し合うためです。
神に造られた尊いあなた…。今日も自信を持って生きてください。
1章26節 ③
「われわれに似るように…、人を造ろう。」
聖書は人間の創造を、「似るように」と「かたちに」の二つの言葉を用いて表現しました。「似る」は、いのちの内容を、「かたち」は、外形を表します。それは、人は「神と同じいのち」を持ち、「神のかたち(父・御子)」に「男と女」に造られたことを表しています。
神は霊であって私は土くれ(肉)なのに、どうして私が神と同じいのちを持てるのでしょうか。神と人が最も似ているところは、顔かたちや能力ではなく、自己決定できる「格(自由意志・人格)」を持っていることです。すべての被造物の中で、人間だけが神に向かって、「然り(イエス)」と「否(ノー)」を言うことができる存在です。
愛は、強制でなく自由意志による交わりです。神はあなたに、「愛しています」と語り続けていますが、あなたが「ノー」と言えば、神といえども、それ以上なにもできません。英語で、「レスポンス=応答」は、「レスポンスビリティー=責任」に変化します。
愛する友よ、愛は「応え合う」ことですから、あなたにも責任(応答)があります。「主よ、今日も一日、あなたに従います。」と応えてください。
1章26節 ④
「…われわれのかたちに、人を造ろう。」
いのちとは「なに」ですか・いのちは「どこ」にありますか、と問われたらどう答えますか。
いのちは、各個人の肉体の中の心臓のように、個人の中に独立して存在できるものではありません。いのちとは、「つながり」と「交わり」のことです。両親の「つながり・交わり」によっていのち(私)が生まれ、親との「つながり・交わり」によっていのちは成長し、夫・妻・子、隣人との「つながり・交わり」の中にいのちが豊かになります。
「われわれのかたち」とは、「父と御子・イエスの愛の姿」です。人は愛に、しかも神の愛に生きる者として造られました。人が、神とつながり、神と交わることで「永遠のいのち(神のいのち)」を持ちます。
反対に、人の死は「断絶と孤独(つながり・交わり、が無いこと)」です。いのちの無いものとつながれば「死」に、永遠の神につながれば「永遠のいのちをもつ神の子」となります。
主は、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです」(ヨハネ17章22節)、「わたしにつながっていなさい」(同・15章4節)と言われました。
今日も、神と人々につながって交わり、豊かないのちの中を歩んでください。
1章26節 ⑤
神のかたちに…男と女とに…創造され…。
愛は対等な人格の交わりですが、その中にも秩序があります。それは、「父」「子」と表現されたことでもわかります。父が子を愛するとは「守る」ことです。子が父を愛するとは尊敬して「従う」ことです。父なる神は御子を守り、御子イエスは父なる神に従います。
神は「愛」なるお方であり、愛は父と子と聖霊による「交わり」です。
神は自分たちと同じように、人間を男と女に造りました。男性には父なる神の立場で「リーダー」、女性には御子の立場で「助け手」の賜物が与えられました。夫が妻を愛するとは、「守る」ことで、妻が夫を愛するとは、「従う」ことです(エペソ5章22~33節参照)。
しかし、リーダーが偉く、助け手が劣るわけではなく、役割分担の違いがあるだけです。それは、自分で得たものでなく神からの賜物です。
リーダーなる夫は、助け手(妻)の意見を聞かずに物事を決定してはなりません。妻もリーダー(夫)を無視してはなりません。この秩序は、「互いが守られる」ために神が創造されたものです。それにはまず、あなたと神の関係(秩序)を正しくしてください。そうすると、あなたと他者、とりわけ家族に正しい関係(愛)が備えられます。
1章28節
「生めよ、ふえよ。地を満たせ。地を従わせよ。海の魚…地を這う生き物を支配せよ。」
愛は、「父は御子を愛して…万物を御子の手にお渡しになった」(ヨハネ3章36節)ように、相手を信頼し委ねます。羊飼いが、99匹の羊を置いて迷った1匹の羊を捜すのは、自分に委ねられた羊だからです。委ねられたのは、信頼され愛されているからです。
神は、人を動物や奴隷でなく、「愛する者」として存在させました。そして、この地球という世界を委ねたのは、人の能力や正しさを信じた、というよりも愛しているからです。それは、放蕩息子の父が、弟息子の人格や能力や賢さを信じたから財産の半分を与えたのでなく、彼を心から愛していたようにです(…迷った羊・放蕩息子…ルカ15章参照)。神は、あなたを愛しているので、家族や財産や様々のものを委ねます。
そしてさらに、あらゆるものを「生み・増やし・満たし・従わせ・支配」する権限を人に委ねたのは、人に「愛する喜び」を与えたいからです。愛は、「受けて、与える」ものです。
友よ。あなたが持っているあらゆるものは、神の愛を受け取るためです。自分を愛するためです。そして、隣人を愛するためです。
1章31節
神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常によかった。
砂漠に咲くランの花が、蜜を吸いに来た蜂の頭部を一瞬のうちにたたき、蜂の体を花びらに押し付け、自分の花粉を蜂につけました。動けない植物なのに?なぜこんな器用な動きができるのでしょう。それは、神がその花を「非常によい」ものとしてお造りになったからです。創造主のみ業は完全です。
一方、人は「神がいるならば、なぜ戦争が・殺人が・飢えが・病気があるの?」と問います。神に完全に造られた者が、神の不完全?を責める不条理はなぜでしょう。それは、自然界は創造されたままを受け止めて完全を実現していますが、人は自己中心に受け止めるので、神の創造どおりにならないからです。
動物や植物は、神に創造されたままに生息するので罪を犯しません。しかし、人は神の御心よりも自分の思いを優先させます。それが「罪」です。
人は、神を愛して従ってこそ、「非常によかった」ものとなれます。しかし、自然界は最初に造られたまま変化できませんが、人には新しく造り直していただける希望があります。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(Ⅱコリ5章17節)。