6章1節
それで主はモーセに仰せられた。
前の5章は、失望の章でした。しかし6章は、「それで」から始まります。それは、神が失望しているモーセを励ますために、「それで…『仰せられた』」ことを記した章です。
失望する者の特徴は、自分と環境に目を注ぐことです。そこで神は、モーセの目を彼自身と環境から天に移させます…「わたしは主である(2・3節)」=創造主に。「わたしは…カナンを与ると約束した(4節)」=神の約束の地カナン(天国)に。「今わたしは…わたしの契約を思い起こした(5節)」=神の約束に。「わたしは主である…(6節~)」=御自分の御名・存在をかけて導き出す神に…。
神の励ましは、駄々っ子の言いなりになることではなく、むしろ、その子を自分に同意させることです。あたかも、「お父さんはパロをやっつけて、皆を解放するから、お前もついてきなさい」と言っているようです。
恐れる友よ。神は厳しい父ではなく、あなたの最善の道を考えているお方ですから、いつも先を進み、あなたの問題と自ら戦われます。だから、天の父の後ろに隠れ、父の衣のすそをつかんで、後ろからついて行ってください。天の父だから必ずあなたを守ります。
6章3節
わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現れたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。
旧約聖書には、「アブラハム、イサク、ヤコブ」との記述が16回登場します。その内の12回は、「誓い・契約」と続くことから、神の大事な約束を示す時だとわかります。
特に、「神は必ずあなたがたを顧みて、この地からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます」(創50章24節)にあるように、カナン帰還、引いては天国への帰還に焦点が合わせられます。
苦難の中にいる民に希望を持たせ、正しい判断と行動を起こさせるのは、天国への「誓いと契約」です。さらに、「主(ヤーヴェ)という名」で知らせるとは、無から有を呼び出す「創造主」、必ず約束を実行する神であることを強調します。
友よ。生きるだけで精一杯の現実の中で、何に望みを置いていますか。それを「世」に置く者は、世のものに囚われて永遠を失います。「永遠」に置く者は、世のものを正しく活用してさらに永遠を得ます。「持っている(永遠の希望)者は与えられ…、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまう」(マタ13章12節)とはこのことでは!
6章6節
「わたしは主である。…苦役から…伸ばした腕と大いなるさばきとによって、あなたがたを贖う。」
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Ⅰコリ1章25節)とあります。神はパロに負かされているのでなく、むしろパロの手を逆手にとって利用しています。神の御計画は、「強い手で、…彼(パロ)はその国から彼ら(ヘブル人)を追い出してしまう(1節)」ことです。パロの民を虐げる強い手が、民を追い出す強い手に用いられます。
今あなたが、何かの強い手に行く手を阻まれているなら、それは自分が願うところから、神が願う目的地に追い出す神の強い御手です。もしも、ヘブル人を迫害するパロの手が弱かったら、彼らはパロと妥協しエジプトに留まったことでしょう。むしろ、ヘブル人たちがモーセを砂漠に追い返したかも知れません。
愛する友よ。あなたの願いどおりにならず、行く道を拒む手が強いほど、それはこの世と妥協し、そこに留まろうとすることを食い止める神の御手です。苦難と困難を、主の許しの中にあること、として受け入れることは、主の「伸ばした腕」を握ることです。神の救いは、苦難から解放されていることでなく、苦難の、その中にあることも多くあります。
6章8節
「アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に…連れて行き…わたしは主である。」
「わたしは主である」と語る神は、「いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王」(詩47・2)です。「全地の王」とは、地理的な国々の王の意味も超え、あらゆる人間と、その人の過去も現在も未来も、全ての事情も支配されるお方、との意味です。
「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる」(イザ46章10節)お方の御計画は、「彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地…に、彼らを上らせる」(出3章8節)ことです。それは、罪の奴隷から解放し、約束の国・天国へ連れて行くことです。
友よ。あなたが信じるのは、神の約束ですか、それとも神御自身ですか。神の約束は大事ですが、約束をされる神御自身はより大事です。約束から神を信じる人は失望しますが、神御自身を信じるゆえに約束を信じる者は失望しません。「わたしは主である」とは、無から有を呼び出す創造主です。ですから、「私はこうなることを信じます」ではなく、「私を創造(救い・導き・完成)してくださる主を信じます」と告白し続けてください。
6章12節
「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」
モーセは、神からは解放を命じられ、同胞からは無視され、パロからは迫害され、それに口下手だと…途方に暮れる他ありません。
ダビデは、神から選ばれていましたが、サウル王に追われて砂漠へ逃げていました。(Ⅰサム22章~)。
エリヤは、アハブ王とイスラエルのバアル神と戦うように導かれましたが、ケリト川とサレプタで3年半過ごしました(Ⅰ列17章)。
パウロは、異邦人伝道の使命を与えられますが、道半ばで牢獄に閉じ込められて生涯を閉じました(使徒28章17~)。しかし、彼らは閉じ込められても黙ってはいませんでした。
ダビデは仲間を訓練し、エリヤは神の言葉にさらに深く導かれ、パウロは手紙を書いて全世界に福音を発信しました。
友よ。神の御心が分かるのに道が閉ざされる時、どうすべきでしょうか。聖書は、この後 節から家系図を記し、自分がどこから救われ導かれたかを思い起こさせ、今までの導きあっての、今、を確信させます(聖歌604・望みも消えゆくまでに)。「停止」は、無駄ではありません。神に深く根差す時です。
6章26節
「イスラエル人を…エジプトの地から連れ出せ」と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。
モーセの家系を記した最後に、イスラエルの解放のために神が遣わしたのは、「アロンとモーセである」と刻印を押しています。
モーセの成長の歴史は、エジプトに居るイスラエル民族の歴史につながります。「男の子(永遠のいのち)は殺せ」のパロの命令に、両親は信仰によって子を隠し、ナイルの水(聖霊)に委ねました。今は、彼が解放者として、両親から受けたことを民に行う番です。モーセが両親から受けた救いの業は、彼の血となって「救われたのは、救わんがため」と叫びます。両親がモーセを救い、モーセがイスラエルを救い、イスラエルが全人類の救いのために、主イエスを迎える準備をしました。救いの鎖はつながっています。
友よ。今、神が「仰せられたのは、あなた(モーセ)にである」と刻印を押します。あなたが受けた救いの鎖の輪は、偶然ではなく、神が誰かを指名し、その人が精一杯応答したからつながりました。貴い救いの輪をつなぐ人として選ばれた使徒(あなた・遣わされた者)よ。次に、誰に救いの輪をつなぎますか。
6章30節
「私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」
神は、「わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ」( 節)とモーセに命じます。しかしモーセは、「私は口べたです」と尻込みし、なんとか逃げようとします。
モーセは、もし自分の弁が立ち、うまくパロに語れるならば、神のご期待に応えられる、と勘違いをしています。同じく、もう少し自分に能力、学歴、聖書知識、社会的地位、健康…があるならば、福音を語れるのにと考えます。
しかし、これこそ大きな落とし穴です。それは、将棋の駒が、「もっと材質がりっぱで見栄えが良く、駒作りの名人に作ってもらうならば勝つことができるのに」と言うのと同じです。将棋の駒に優劣はなく、あるのは「だれの手に握られて動かされるか」です。モーセを手に握るお方は神御自身です。
友よ。あなたを握るお方は、モーセを握られた「不思議な助言者、力ある神…」(イザヤ9章6節)です。あなたが、飛車・金・銀、あるいは香車にもなれない一人の「歩」であっても、神に握られると「金」に変えられます。自分の能力を見るのでなく、あなたを持ち運ばれる神を信頼してください。