34章1節
「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを…書きしるそう。」
神は以前、モーセが子牛に踊る民を見て砕いた十戒の石の板を、再び作れと命じます。
本来、「十の神の言葉」と呼ばれる「十戒」には、二つの働きがあります。 最初は、神の基準で罪を示し、人を神に導くことです。次は、人が正しく歩む道・神との正しい関係を示すことです。両者の中間に、主イエスの十字架があります。したがって、罪を示して十字架に連れて来て、そこから、肉ではなく復活の命によって生きることを教えます。 それをパウロは、「律法は…キリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラ3章24節)と言いました。
神の戒めは、エデンの園の中央に置かれた「善悪を知る木」そのものでした。神の言葉は、戒めであり、神と人の正しい関係を教えるものです。
友よ。あなたの罪のために、最初の戒めの板の基準によって主イエスが十字架で砕かれました。そして、新しい石の板に書かれた戒めは、復活の命を受けた者が、肉によらず主の霊によって生きるために必要な神の言葉です(ロマ8章4節参照)。神の戒めの言葉は、十字架と復活において完成します。
34章29節
モーセはシナイ山から降りて来た。…彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。
シナイ山から降りて来たモーセの顔が光り輝いています。顔は人格を表すものです。
ある青年が、「ジョン・ウエスレー(メソジストの創設者)という人はいったいどんな人間だったの」と質問しました。「ビル君、ジョン・ウエスレーという人はね。…その顔が、時が経つに従って色あせるどころか、かえって輝きを増す、というような人だった…」と答えました。
モーセは80才を超えて顔が輝きを増していました。彼の40才までは王子の顔、80才までは羊飼いの顔でしたが、80才からは神の顔になっていったのです。 その輝きは、「主と話したから」でした。それは、「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」(Ⅱコリ3章16節)が教えています。
友よ。世でいう美しい顔を望むなら、さらに世に深入りすれば得られるでしょう。しかし、主と交わるならば、「肉」という外側の人が取り除かれ、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」。
34章30節
イスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。
モーセの輝く顔は、人々には「恐れ」でした。キリストの人格に近づいたのに、なぜ?
神は、「…咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代、四代に」(7節)と、決して罪に妥協しない厳しい顔を持っています。
アーノルド・トインビー氏は、著書の中で、挑戦と応戦の項目で、「歴史上の21の文明の内、16の文明が衰退したのは、どの場合も悪の問題の解決がカギであった」と述べています。
罪と戦わなかった国家、罪を許した家庭(応戦しない家庭)が滅びました。国家、家庭、それ以上に個人の内側において、罪は挑戦してきますが、それに妥協せず応戦しなければ滅びます。 モーセは、若い時から自分の罪と、この数年は民の罪の挑戦に応戦し続けていました。
主のしもべたちよ。「世にあっては患難があります」(ヨハ16章33節)とある、最大の患難こそ「罪の挑戦」です。それに妥協せずに勇敢に戦ってください。しかし「わたしはすでに世に勝った」というお方、主イエスの御名によってです。罪と戦う顔は、光り輝きます。
34章32節
イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。
神の言葉を民に告げた時のモーセの顔も、輝いていたに違いありません。使命に燃えた厳しい顔も輝きます。
主と弟子たちは、最後の晩餐の後ゲッセマネの園で祈りました。三度、「父よ、杯を…」と祈った主は、「立て、さあ、行こう」(マタ26章46節・口語訳)と顔を上げました。主はこの祈りによって、父なる神に自分を明け渡す「自分の十字架」を負い、そして「人々の罪を贖う十字架」の使命を果たすためゴルゴタへ向かいました。
モーセは、罪を民の責任にせず、「あなたの書物から、私の名を消し去って」と言い、神から授けられた使命を果たそうとしました。ゲッセマネの主イエスも、シナイ山から降りて来たモーセも、神の御心から逃げず、恐れず使命に立ち向かいました。使命に燃える顔は輝きます。
最近、キリスト教界から消えたのが、「使命に輝く厳しい顔」です。開拓伝道、路傍伝道、命をかけた説教、弱者に仕える…など、命がけで「全世界に出て行って」は過去形です。
だから友よ。あなたには、罪と戦い、使命に燃える輝く顔になって欲しいのです。
34章33節
モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。
光り輝く顔を持ったモーセは、それ以後、民の前に出るときは顔をおおいました。
主イエスのゲッセマネの園の祈りは、血の汗がしたたり落ちるほどでした(ルカ22章24節)。彼がこれほど恐れたのは、十字架上の肉体の苦痛ではなく、罪を負うことで、父なる神から離されることでした。しかし、「御心のままに」と従いました。この時、父なる神にへりくだった主の顔は輝いたことでしょう。
忠実なへりくだった顔も輝きます。モーセの本心は、自分が輝くことでなく、神が輝くことでしたから、顔をおおいました。パウロも、「神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」(ロマ16章27節)と言い、自分の輝きを消していました。
モーセは、「自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった」(29節)ようですが、私たちは、私が・私を…と、自らの光を輝かせようとします。「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」(Ⅱコリ10章18節)。
友よ。主によって輝く者になってください。
34章35節
イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。
罪と戦う顔も、使命に燃える顔も、へりくだり忠実な顔も輝きます。それらは、自分の十字架を負って主に従う者たちの顔です。
「キリストによって私は生きる」と「キリストのために私は生きる」には大きな違いがあります。 前者は、自分のためのキリストであり、求めるのは神の恵みであり、自分の利益です。それは、神の愛を受けるだけの人です。後者は、神のための自分であり、恵みでなく神御自身と神の栄光です。それは、愛されるだけでなく、神を愛する人です。
両者を分けるものは、「自分の十字架」を負うか否かです。自分の十字架を負うとは、自分を失うことでも、卑屈になることでもなく、「相手を愛すること」です。だれかに愛されるとき、顔は緩んで輝くものです。
しかし、愛するときは、罪と戦い、自分の思いでなく神の使命に動かされ、自分の利益でなく相手のことを思わねばできません。それは、自分の十字架を負わねばできません。
友よ。神に愛され緩んで輝く顔と共に、神を愛するために、罪と戦い、使命に燃え、へりくだる厳しい顔は、人としての深みのある輝きを放つ、本当に美しい顔です。