33章2節
あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。
(新共同訳)身をとおして、民の偶像礼拝の罪の赦しを求めたモーセの祈りは聞かれました。神は、民がここからカナンへ進むことを許しますが、しかし、民と一緒に行かないと言います。
神が罪を赦したからには、一緒に行ってくださる、と期待しますが違いました。それは、神が民の罪を赦したのは、モーセの祈りへの答えであって、民全員が罪を本当に深く悔い改めたかは疑問だからです。
執り成しの祈りには大きな力がありますが、執り成された人が本心から悔い改めなければ、その恵みは一時的なもので終わります。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る(つながり交わる)ことです」(ヨハ17章3節)。
友よ。隣人の罪の赦し、病の癒し、経済的問題などを執り成すならば、神は聞いてくださいます。しかし、その人の問題がなくなる以上に、その人の魂の救いがさらに必要です。神は、その場の救いだけを求める者と共に「上る」ことはしませんが、神御自身を求め続ける人から離れることは決してありません。
33章7節
モーセは一つの天幕を取って、…それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、…臨在の幕屋に行くのであった。
(新共同訳)神が共に行かない、と聞いた民は憂えました。そして、「その飾り物を身に着ける者はいなかった」(4節)ように、思い当たる罪を捨てて神の前に立とうとします。
民が、金の子牛を造った原因である金銀の飾り物を取り除くことで、悔い改めを表明したのは良いことです。ヨシヤ王も、「霊媒、口寄せ、テラフィム、偶像、それに、…すべての忌むべき物も除き去っ」て(Ⅱ列23章24節)、宗教改革を断行しました。しかし、思い当たる罪の原因を除くことは必要ですが、悔い改めにはその先があります。モーセは「…自分のために…会見の天幕」を持っていましたが、それを悔い改めた民のために開放し、人々をそこに招きました。
友よ。私たちもモーセに見習い、自分の会見の天幕を持ち、さらに人々を神に出会わせる会見の天幕を提供したいものです。 罪は十字架で赦されるだけでは半分の恵みで、後の半分は復活の命に生きることです。主イエスは聖霊を私たちの魂に送り、そこを神と人の会見の天幕(聖霊の宮)として提供してくださいました。今日もそこに入ってください。
33章9節
モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。
(新共同訳)「主はモーセと語られた」に、聖書の神、ヤーヴェ・エロヒームの本質を見ます。
ある在家仏教をネット検索すると、限りない情報が出てきますが、その神仏の人格はわかりません。信じる対象に人格がないので、その教えを自分で理解し、守り、行わねばなりません。
しかし、聖書の神は、モーセと語り合うお方です。教えが理解できず、実行力がないとき、「主よ、何を、どうすれば…」と問えます。すると神は、「助け主…わたしの名によってお遣わしになる聖霊は、…あなた方にすべてのことを教え、…思い起こさせてくださいます」(ヨハ14章26節)。
エリヤは、「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」(Ⅰ列17章1節)と言い、パウロも、「あなたがたも…キリスト・イエスにあって神に生きている者である」(使徒6章11節)と言います。
「モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て」とは、まさに聖霊が神から遣わされて、あなたの中に内住されることです。
さあ、友よ。聖霊によって、「顔と顔とを合わせて」(11節)、神の御声を聖書によって聴いてください。そして、祈りによってあなたも神に話しかけてください。
33章16節
「あなたが私たちと一緒においでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」
モーセは執拗に神に食い下がり、神を説得しようとすらしています。何よりも、「あなたが私と共にいること」を求めて続けます。
偶像神と、「わたしはある=ヤーヴェ=エゴ・エイミー」(ヨハ8章24節・新共同訳)と言われる聖書の神では、信仰の在り方が違います。
偶像神への信仰は、その神自身ではなく、神が約束している恵みが目的です。従って、無病息災・家内安全・商売繁盛が信仰の目的となり、神はその手段になります。ですから、幾つもの神々を同時に拝めます。モーセが求めたのは、敵からの守りでも、過不足ない平和な生活でもなく、「あなたが私たちと一緒に行ってくださること」でした。
盗みも、姦淫も、偽りも罪ですが、神から離れている罪以上のものではありません。私たちは聖霊を受けていますが、肉の下に押し込めて悲しませています。「自分の救いの達成に努めなさい」(ピリ2章12節)とは、「あなたに与えられた信仰を働かせよ」の意で、さらには「聖霊に満たされよ(支配されよ)」です。
友よ。モーセの願いは、聖霊の願いです。私たちも、「主が共に」を求めましょう。
33章17~18節
「…あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」 …「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」
主の特別な言葉を受け取ったモーセは、神の栄光を見させてくださいとお願いしました。 信仰を持っても、順風満帆な人生が約束されているわけではありません。
台湾生まれの一人の青年が、大陸の神学校へ進みました。大戦の終了と共に共産軍の支配に。しかし彼は大陸に残って伝道。やがて、信仰の先輩が捕まり、拷問を受け、彼の存在を密告。労働改造所へ収監。毎晩の思想改造講義と日中の重労働。ある時、同じ収監中の人が皮バンドを持ってきて、「食料を見つけた」と言うほどの食糧不足。合計23年、聖書を一度も見ることのない生活。収監された初期、一度心がぐらついたが、その後はキリストと共に…。彼(張アクラ師)は、釈放後も今日に至るも、神の栄光を見て過ごし、私たちに神の栄光を見せて下さいました(2012年1月11日召天)。
友よ。今、どんなに惨めで、理想から離れ、泣きながらの信仰生活であっても、あなたは神から「名指し」で選び出されたのです。栄光を現すのは、あなたではなく、神です。神はあなたを見捨てるはずがありません。
33章22節
わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。
神は、わたしの顔を見ることはできない(20節)と言いますが、顔と顔とを合わせて(11節)と先に言いました。これを解くカギは、「いまだかつて神(父)を見た者はいない。父の…ひとり子の神(イエス)だけが神を説き明かされた」(ヨハ1章18節)にあります。
旧約の時代は、御子イエスをも直接見ることはできず、神殿の中の諸々の器や、動物犠牲の中に見ていました。
神の御子が人性をとられた時から、子なる神・イエスを見ました。その主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのです」(同14章9節)と言いましたが、父なる神を人々が見ることができるのはただ一箇所です。
それは、「岩の裂け目」です。岩は主イエスを表し、裂け目は十字架上の釘の刺さった手と足の裂け目、槍が刺さった脇腹の裂け目、罪の赦しと言えます。
裂け目に入れられた友よ。罪人が神を見るならば、神の義と聖に打たれますが、罪を赦された者には父なる神が、御子によって御自分を現してくださいます。そうです、御子イエスの十字架によって、父なる神にお会いできるのです。ハレルヤ