3章1節 ①
モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。
かつてのエジプトの王子は、今は羊飼いです。さらに、「舅(しゅうと)の羊」を飼う者で、自分の羊は一匹も持っていません。彼は、砂漠の羊飼いの婿でしかありません。神は、ここまで人を小さくします。
神が人を用いる法則は、「プラスα(御霊の実)」の足し算よりも先に、「マイナスβ(肉)」の引き算から始めます。神は、王子のモーセから、地位、財産、快楽、名誉などを四十年かけて差し引こうとしています。神が引き算するものは、人の肉(不品行・汚れ・好色・偶像礼拝・敵意・争い・そねみ・党派心・分裂・分派・ねたみ…)です。しかしその目的は、α=御霊の実(愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)を加えるためです(ガラ5章19~26節参照)。
神の引き算に入れられている友よ。この試みは、あなたと、あなたの子孫にも必要な「千代に及ぶ祝福」のためです。苦しみは三~四代(四十年)ですが、祝福は千代(永遠)に及びます(出20章5・6節)。友よ。「平安な義の実」(ヘブ12章11節)を結ぶゴールまで、主が共に走ってくださいます。がんばれ!
3章1節 ②
神の山、ホレブにやって来た。
ホレブの山頂には、エルサレムを指す道標が立っています。それには、「ホレブ(シナイ山・律法)からエルサレム(恵み・十字架)へ」と記されています。旧約のすべては、イエス・キリストへ向かっています。
友よ。ホレブに逃げよう、そこに登ろう、そこで神の声を聞こう、そして遣わされて出て行こう。
3章2節
主の使いが…。柴の中の火の炎の中であった。…火で燃えているのに芝は燃え尽きなかった。
ホレブの山麓に羊を連れて来たモーセは、不思議な光景を見ました。柴が燃えているのに、それが燃え尽きないのです。
神の御臨在は、荘厳な神殿や儀式の中ではなく、何の値打ちもない柴に現れました。神の火が柴(神の子)の中で燃え続ける条件は、「枯れている(乾いている)」こと、それは自我という水分がないことです。モーセは、40年間、砂漠の灼熱(試練)で照らされ、水分を抜かれた「枯れた柴」となっていました。さらに、枯れた柴が燃え尽きないのは、柴以外の何かが燃えているからです。燃え尽きない柴の正体は、主の御使いがその中に居たからでした。それは、聖霊が火となって働かれる姿で、枯れた柴こそモーセその人です。神の熱情は、苦難に苦しむ民に向かいます。
友よ。神は、モーセを呼び出し、御自身がモーセの中で燃えたように、あなたを呼び出し、中で燃え、遣わしたいと願っておられます。枯れた柴にされるには、痛みと忍耐(40年・試練)が伴いますが、決して無駄ではありません。神は、あなたの中で、燃え尽きない炎となりたいと願っておられます。
3章3節
「なぜ芝が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
神は歴史上で、多くの人々を御自分のみこころを行わせるために招きました。柴は、柱や幅広い板を取ることもできない雑木です。しかし、柴こそは神に召される本物の器です。
神の器は、主の試練によって枯れ(聖別され)た一本の柴です。神の火は、一本の柴(一人の神の子・燭台の上の一本のろうそく)の中でも燃えますが(マタ5章15節)、多くの柴が集まる(キリストの体・教会)ほどにより激しく燃えます。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません」( 節)。教会は多くの柴が集められて燃えている所です。多く集められた柴が燃えるのが、リバイバルです。しかし、燃えるのは柴でなく、柴の中で燃える聖霊の神です。
リバイバルは、個人と教会の中で、「イエスが主」とされて、神の火が燃えることです。リバイバルが起こらないのは、柴(人間)が燃え(人が主)ているからです。燃え尽きない柴は、人々の目をくぎ付けにし、ホレブ(神の御臨在)に招きます。
友よ。「あの人は・この教会はどうして燃え尽きないのか?」と不思議がられる枯れた柴になってください。
3章4節 ①
主は、モーセが道をそれて見に来るのをご覧になった。
(新共同訳)モーセは、燃え尽きない柴を見るため山に登って来ます。その時のことを、「道をそれて見に来た」と表現しています。道をそれる、の言葉は重要です。
彼には、羊の世話をする大事な仕事がありましたが、そこから「それて」行くことは、「羊を置いて・仕事を放棄して」となります。だれにも、会社や家庭に仕事と責任がありますが、「それる」ことは、その歩みから「外れて・責任を放棄して」と言う意味にもなります。神に出会うには、自分の計画の延長線上ではなく、むしろ不本意な出来事によって、自分の計画を中止した、その先にあるものです。「置く・放棄する・やめる」のは、神のことを優先するために、自分の計画や思いから外れることです。しかし、それは自分から探すものではなく、神が備え導くものです。
主のしもべなる友よ。あなたに迫る出来事のその中に、神が待っておられます。神は普通の出来事では、あなたを御許に引き寄せる事が出来なかったのです。モーセが羊を置いて燃える柴を見に山に登ったように、新しい出来事に恐れないで向かい合ってください。
3章4節 ②
神は芝の中から…、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります。」と答えた。
モーセは、自分に語りかける神を知りませんが、神は彼の出生から、今に至る全てを知っています。それは、モーセを生まれさせ…王子に…羊飼いに…そして燃える柴で御元に引き寄せたのも、神御自身だからです。
人が神を理解できなくても、「あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたに名を与えた」(イザ45章4節・口語訳)主は知っておられます。名前は、その人の過去、現在、将来も含んだ「存在」の全てです。従って、人は、自分の存在を神に尋ねず、自分で考えてもわかりません。人の存在(名前)を決めるのは神ですから、自分で自分に名前(存在)をつけてはなりません。
友よ。神は、あなたに素晴らしい名(存在)を与えています。しかし、モーセやサムエルも、最初は自分の名=存在を知りませんでした。彼らが、自分の名を理解したのは、「はい。ここにおります」(Ⅰサム3章4節)と応えた後からです。神は、招きに応える者に、名(存在)を知らせられます。今日も、「主よ、ここにおります」と応えましょう。
3章5節 ①
神は…「ここに近づいてはいけない…あなたの立っている場所は聖なる地である。」
神は、人を御自分に引き寄せたいと願っておられますが、「ここに近づくな」の言葉は、それに逆行するようにさえ見えます。
現代は、皆が平等と教え、親と子は友だち、大人と子どもは対等、夫と妻は同志の関係となっています。これらは神の秩序から外れ、人間関係にひずみを生じさせます。それ以上に恐れるのは、神と人との関係にも「対等・相互理解」が入り込むことです。それは「主・従」「聖・俗」「創造主・被造物」の垣根をなくします。「近づくな」とは、神の「権威・力・義・聖」は、人間とは次元が違い、「神と人は対等ではない」ことを示します。もし、人の正しさ(義)と清さ(聖)が、神の義と聖に同じなら、天国に救いはなくなります。
「主を畏れることは知恵の初め」(箴1章7節・新共同訳)とは、神と自分の違いを理解し、正しい関係に立つように教えたみことばです。「近づくな」と言う神は、「あなたの立っている場所は聖なる地」とも言われます。人から神に近づくことはできませんが、神は主イエスの贖いにより、神と交わることができるところに立たせてくださいます。
3章5節 ②
「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
神は、創造者・全能者・聖と義なるお方ですが、人は被造物・有限・罪人です。こんなに違う者同士に、接点があるのでしょうか。
神と人の接点は、人が靴(職業・学歴・組織…支えるもの)を脱ぎ、神の前に出ることから始まります。誰でも、自分の好きな靴を履いて生きてきました。靴を脱ぐとは、神以外に自分を支えるものから離れることです。それは、最後の晩餐の時、主に足を洗っていただくために靴を脱いだ弟子たちのようです。主は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(ヨハ13章8節)と言われました。洗足は、弟子たちを清め、聖なる交わりを保つために必要でした。
友よ。あなたは、主が備える聖なる靴ではなく、ビジネス靴(仕事)、運動靴(健康)、ハイヒール(美容)を履き、そのために疲れたのではないですか。今、主があなたに備える靴に履き替え、主の道を、主と共に歩き始めませんか。神が備えてくださる靴は、「平和の福音の備えをはきなさい」(エペソ6章15節)とある、神や人々の平和(正しい関係)の道を歩くために必要な靴です。
3章6節
「わたしは、…アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは…恐れて、顔を隠した。
神は、聖書の中で何度も右のように語りかけます。誰も最初から、「アブラハム(すべての者の父)」や「イスラエル(神の王子)」ではなく、アブラムとヤコブです。
かつてのモーセは「大モーセ」でしたが、今は「小モーセ」です。「すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする」(イザ2章12節)神は、「低い者を高く引き上げ」る(ルカ1章52節)お方でもあります。モーセが神の顔を避けたのは、砂漠での長い生活を経て、自分が小さい者だと本当に知ったからです。アブラハムもヤコブも、改名する前は、小さな人物にされるための試練を通らされました。そしてモーセも、四十年かけて小さくされてから、「神の人モーセ」と呼ばれるようになりました。
友よ。あなたが神から顔を隠すのは、怖いから?罪を隠しているから?それとも試練の中で小さくされたからですか。自分に神の働き人の資格がないと思っているなら、それが神の前に出て行ける資格です。神は、小さくされて神を畏れる者を求めておられます。
3章8節
「わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、…導き上る。」
(新共同訳)神が「モーセを遣わす」と思いがちですが、神自らエジプトに行き、人々を救い出すと告げます。エジプトに先に行くのは、モーセではなく神御自身です。新約聖書でも、羊飼いは「その先頭に立つ」(ヨハネ10章4節)と。
神に従う人は、いつでも先頭に立つ羊飼いイエスの後についていればよく、先にエジプトに行く必要はありません。神がひとりホレブの山に残り、「行け、モーセ。死に物狂いで戦い、勝利せよ」とは命じられません。「主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」(イザヤ52章12節)。主が先に行き戦われますから、恐れることはありません。
なぜ主は、「わたしの後に続いて来い」と言われるのでしょうか。それは、主が戦って得た勝利の恵みを、私たちに与えたいからです。考えてください。十字架は罪からの勝利、復活は死からの勝利、聖霊の注ぎは肉と世からの勝利です。それらは主イエスが戦い、勝ち取った恵みですが、すべて私たちへの贈り物としてくださいました。
友よ。主に従うことは、恵みを受け取ることです。
3章10節
「今、行け。」
なんと力強いお言葉、御命令でしょうか。これは、相手の理解や都合の有無、資格や能力など一切の立場と条件を超えて、ただ「今、行け」と言うだけです。しかし、本当の意味は、「今、私に続け」です。
自分の、理解や都合や事情をもって出てゆくのが伝道ではありません。もしそうであれば、自分の理解、都合、事情、力に余る出来事に直面する度に引き返さねばなりません。しかし、主に遣わされることは、主の理解と都合と事情に、自分の理解と都合と事情を合わせて行くことです。これを伝道といいます。
若い兄弟姉妹よ。「今、行け」の声が、体と心と霊の耳に鳴り響きませんか。壮年の兄弟姉妹よ。かつて聞いたこの声が今も心の壁に残響していませんか。年を重ねた兄弟姉妹よ。若い兄弟姉妹に、「主と共に、今、行け」と背中を押すのはあなたがたの仕事です。「働き手が報酬を受けることは当然である」(Ⅰテモ5章18節)ように、人生にはなにがしかの報酬があります。罪に仕えて死の報酬、世に仕えて奴隷の報酬、神に仕えて永遠のいのちの報酬!いいえ、もっと素晴らしい報酬、三位一体の神御自身という報酬です。
3章11節
モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行って、…連れ出さなければならないとは。」
モーセは神に、アッシリアやバビロンへ行けと言われたら行ったでしょう。しかしエジプトは、彼が絶対に戻りたくない所です。
モーセが強く拒むのは、彼の人生の敗北の場であったからです。後に登場するモーセの後継者ヨシュアも、エリコの戦いを前に、「ひとりの抜き身の剣を手に持って立つ」お方に出会い、敵か味方かを尋ねます。すると彼は、「主の軍の将として、今、来た」と言いました。そして、「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」(ヨシ5章13~15節)と、モーセが聞いたと同じ声を聞きました。神はいつでも、力を注ぐより先に、その人物を神の器に整えます。
あなたは、敗北の場(怒りを爆発・純潔を汚す・裏切り・逃亡・無力)を隠して生きていませんか。あの時は、孤独で追い詰められていました。しかし、今は一人ではありません。主があなたと共に戻り、罪や弱さに血潮を振りかけ、聖め、復活の命に変えます。あなたは今、新しい神の靴を履いた神の子です。恐れず、主の後について行ってください。
3章12節 ①
「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」
神がモーセを遣わすしるしは、「わたしはあなたとともにいる」という言葉でした。これだけで満足できますか?また、「ともにいる」のは、いつ、どこまでかも気になります。
人間同士では、いつまでも「あなたとともにいる」とは言い合えません。主は、自分が神であるしるしは、「ヨナのしるし」(ルカ11章29節)、十字架と復活だと言われました。罪の奴隷になっている者と一緒になるために十字架につき、復活のいのちを与え、さらに「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハ14章16節)と約束されました。聖霊は、私たちが神とともにいるための助け主です。
主の来臨から二千年、人種、国、支配者を超え、神のみことばが人々を動かしました。今も、神は「みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなもの」(マコ16章20節)とし続けておられます。
友よ。「ことば(主イエス)は神(父なる神)とともにあった」は、「聖書は、神とともにある」ともできます。みことばこそ、神がともにいるしるしです。
3章12節 ②
「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう。」
(口語訳)イスラエルの民がエジプトから出て行く目的は、「この山(ホレブ)で神に仕える」ためです。主イエスが荒野で試みられた時、「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」(マタ4章10節)と言われた「拝し・仕える」とは礼拝のことです。これらのことから、出エジプト記のテーマを「礼拝」とします。
人は、偶像・世の力・富、権力、人、自分自身をさえ礼拝しています。世(エジプト)の支配者サタン(パロ)は、「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」(同9節)と言いますが、その先に潜む死はひたすら隠します。人が礼拝するとは、そのものの「奴隷=支配」となることです。
礼拝とは、神の愛を受けて、神を愛することです。私たちは、神を愛する(礼拝)ために造られました。そのためには、エジプトの支配(罪とサタン)から解放され、神の御臨在の山ホレブに行かねばなりません。
友よ。「心(知性・感情・意志)を尽くし、精神(霊)を尽し、力(体)を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(礼拝しなさい)」(申6章5節)。今日も神に礼拝をささげましょう。
3章12節 ③
「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えるであろう。」
(口語訳)「人は神の栄光のために生きる」と聞き、「損だなあ」と言った人がいます。彼は、礼拝を神に仕えることだと勘違いしたようです。
礼拝は、神と人の交わりのことですが、神は創造主で人は被造物ですから、人間同士の交わりとは違います。祈りと賛美と礼拝の微妙な関係についてA・P・ギブス師は、「一人の人が水におぼれて叫ぶ(祈り)、ある人に助けられて感謝する(賛美)、それを機にその方との信頼が深められ、敬慕と尊敬が増し加えられて交わることが『礼拝』である」と。礼拝は英語でワーシップと言い、「価値あるお方(神)に価値を帰する」との意になります。それは、神を正しく神とすることです。そのために必要なことは、礼拝する三位一体の神を正しく知る必要があります。知る量に応じて、礼拝が豊かにされます。
友よ。霊とまことをもって、まことの神を礼拝することは、あなたが神に仕える以上に、あなたが神に仕えていただくことです。すると、神があなたを価値ある者に造り変えてくださいます。礼拝ほど自分の徳を高めていただけるものは他にありません。
3章13節 ①
モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。」
神と人の関係は、愛によるものですから、神といえども人の同意なくては何もできません。一組の男女が結婚を告白するように、神と人の関係も告白から始まります。
神は、モーセを40年も荒野に閉じ込めました。荒野は、水も食物も少なく、仲間との共存も困難で、常に緊張と争いが生じます。豊かで快適に見える現代社会も、じつに砂漠のように渇き、主張し、競争して生きています。砂漠であることに気づき、本物のいのちを求める「心(霊)の貧しい者(求道者)は幸いです」(マタ5章)。自分と社会への失望が、いのちを求める心(霊)を起こし、神の声を聴くようにさせます。そして、神の声(みことば)に応える(告白)と、神が働き出します。砂漠は神の声を聴く絶好の場です。
友よ。失望 → 求め → 聴く → 応答する者は幸いです。モーセのように、「今…、私はイスラエル(家族・知人)に行きます」と応えてください。その先にある、「あなたもあなたの家族も救われます」(使16章31節)の約束のみことばが、「キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成して」(ピリ1章6節)くださいます。
3章13節 ②
「…父祖の神が、…『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。…何と答えたらよいでしょうか。」
モーセは、実父母の元を離れてから四十才までエジプトの神々の中に置かれ、その後40年間、荒野にいました。今、「父祖の神」から同胞に遣わされるにあたり、父祖の「神の名」をどのように伝えるかを質問しています。
名前は、人格と、働きや人生で結んだ実の両方から付けられるものです。「人格」とは、その人を存在させた方(神・両親)の最初の意思からです。「働きと実」とは、その人の生涯の働きと実績からです。主イエスの名前は「インマヌエル=神とともにいる方」、すなわち「父なる神とともにいる子なる神」です。また、「羊飼い、王、小羊、平和の君、ぶどうの木…」などは働きと実から付けられます。
友よ。あなたは主の名を幾つ知っていますか。勿論、知識としてではなく、あなたと神との実際の係わりによる経験を通してです。主の名は、「羊飼い・王・小羊・いのち・守りの岩・平和・道・真理・慰め…」です。多く知るほどに、人生は豊かになります。そして、人々にも、神・主イエス・キリストについて、正しく証しすることができます。
3章14節 ①
神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」
神の御名を各聖書が訳しています。主イエスが、御自分で自分の御名を明かしたヨハネ8章58節では、「わたしはいるのである(口語訳)」「わたしはいるのです(新改訳)」「わたしはある(新共同訳)」(原語は「エゴ・エイミー」)で、旧約聖書の「ヤーベェ(ヤハウェ)=主」と同義語です。
イエスはこの言葉によって、「わたしは主(神)である」と言いました。「わたしはある」=「ヤーベェ(主)」=「エゴ・エイミー」は、いずれも「神」御自身を表し、何よりも「存在者」、「存在させる方=創造主」となります。このお方こそ、無から有を呼び出す、唯一の創造主なる神です。
友よ。私たちの神は、天地が造られる前から、自分自身で存在し、何もない所に宇宙と私たちを存在させた、まことの神です。さらに、主なる神は、私たちに語りかけ、祈りを聞いてくださる人格(愛)の神です。
3章14節 ②
「こう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
モーセは、エジプト行きを決心しました。神に従うことは、なんと難しく、しかし尊く、恐れと畏れが交差するものでしょうか。
献身は、「わたしに身を献げなさい」と神に迫られることです。神が献身を求められるのは、その人自身をさらに祝福し、同時に多くの人も祝福したいからです。パウロは、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(Ⅱコリ5章14節)と言いました。それは、神の愛にしっかりと捕まえられて、逃げることができない状態を表しています。
献身は、「主の贖い(神の愛)のゆえに、私の内にある復活のいのちによって生きる」ことです。従って、神のために働くことが目的ではなく、神御自身にお仕えする(愛する)ことです。それは、神と密接に交わる状態が、なによりの献身です。愛は「働き」よりも、「存在」によって現すものです。
友よ。エジプトへ行くこと(奉仕)は、人々ではなく神に仕えることです。何もできなくても、賜物が小さくても、神に献身することは、あなたにもできます。
3章16節
「私は…エジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。」
神は、エジプトにいる民の「嘆きを聞き…思い起こされ…ご覧になり…みこころを留める」(2章24・25節)憐みのお方です。神の愛を忘れると、余分な推測と自己憐憫、他者攻撃に心を奪われ、相手も自分も惨めにします。
神は、御自分の子たちが苦しむのを見過ごしにできません。しかし、賢い親はすぐに子の苦しみを取り除くのでなく、苦しみを通して根本的な解放に導きます。「たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが共私とともにおられるからです」(詩 23・4)とある、「神がともにいてくださる」ことが、人の全き解放です。神が人の苦しみに沈黙しているかに見える時がありますが、その沈黙は、無視ではありません。神は、「待つ神」(ルカ15章20節参照)であると同時に、「備える神」(創22章14節参照)でもあります。
友よ。神は、あなたの今の悲しみや苦しみを御存じです。なによりも、神に心に留められていることを忘れないでください。しかし、神は「今」だけを見てはいません。あなたの、これからを見据えて「待ち・備え」ておられます。震災で苦しむ主の友よ。祈っています。
3章18節
主が私たちにお会いになりました。…私たちの神、主にいけにえをささげさせてください。」
主がモーセを召し、彼を用いて神の民を導き出す目的は、「この山で神に仕え」る(12節)ためでした。「仕える」とは、何かのご用をすることではなく、礼拝することです。モーセが神から、「この山で仕える」と聞いた時、動物犠牲などの宗教儀式を考えたでしょう。原語で「仕える」は、「ご用を聞く」の意があり、そこから、「神に聴く」ことが、神に仕えることだと理解できます。聖書はそれを、「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサム15章22節)と言います。神が望む「いけにえ」とは、「私が神に聴いて従う=自分自身を献げる」ことです。
友よ。賛美・奉仕…と言っては自己満足を求めていませんか。「いけにえ」とは、命を断つことが前提です。冒頭の聖句は、「主が(人となり、いのちを捨てて)私たちにお会いになりました。…私たちも、神、主に自分を献げます」ではないでしょうか。聖書は、「神はあなたを愛した(主の十字架)から、あなたも神を愛せよ(自分の十字架)」です。これが、霊的な礼拝です(ロマ12章1節)。
3章19節
エジプトの王は強いられなければ、あなたがたを行かせないのを、わたしはよく知っている。
後に、モーセとパロの十度に及ぶ対決が記録されることになります。パロは「でも、でも」と神に逆らい、神は「これでもか、これでもか」とパロに立ち向かっていきます。
もし、パロが簡単にイスラエルの民を去らせたなら、その後の民はどうなったでしょう。多分、彼らが荒野の試練に耐えられなくなる時、頑固なモーセを離れ、自分たちに理解を示したパロを慕ってエジプトに戻って来たことでしょう。
神が、「パロの心をかたくなに」(7章3節)したのは、エジプト人に御自分を知らせるためと(同5節)、神の民が再び世とサタンの支配に戻らないためです。神のなさることは、何時でも、誰にでも最善ですが、人は「神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない」(伝道3章11節)ために不平を言います。
祈っても現実が動かないのは、神があなたに中途半端な救いでなく、全き救いを与えるためです。荒野から引き返さないために、パロ(支配者・偶像)とエジプト(世)の姿を徹底的に見せるためです。
友よ。神は、この時も、あなたのために働いておられます。
3章20節
「わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中で行うあらゆる不思議で、エジプトを打とう。」
出エジプト記は、イスラエル民族の歴史を超え、全ての人に起こる神の御業の預言です。聖書は、エジプトを「この世」と見なし、神を信じない世界全般を表します。
神は、この後、ナイル川を血に変え、蛙、ぶよ、あぶ、疫病、はれもの、雹、イナゴの大群、暗闇など「あらゆる不思議」なことを行われます。その目的は、人を神の「過越し・十字架」に結び付け、「一度死ぬことと死後にさばきを受ける」(ヘブ9章27節)ことから逃れさせるためです。現代における、いなごの襲来(食い荒らし・滅ぼす)は、病気や経済的行き詰まりであったりもします。それを、「神(わたし)が手を伸ばし、私(エジプト)の中で…不思議を行い…警告(打つ)している」と受け止めるならば幸いです。
人生に起こる出来事は、不思議です。しかし、その上に神の御手がある、と受け取ると「不思議」ではなく、「命をもたらす霊の法則」(ロマ8章2節・新共同訳)になります。御霊の法則は、「罪と死との法則からあなたを解放したからです」と続きます。
友よ。神の不思議は、救いと祝福を造るためです。