27章1節
アカシヤ材で祭壇を造りなさい。縦五アンマ、横五アンマの正方形、高さは三アンマとする。
聖所は、十戒で表される神のことば → 贖いのふた → ケルビム → 机 → 燭台 → 香壇 → 幕屋の幕…と作られ、45mと22.5mの縦幕で囲まれる「庭」の中に置かれました。
その聖所に入る前に、「祭壇」と「洗盤」が置かれていました(30章18節)。祭壇は縦横2.3m、深さ1.3mの青銅で覆われた箱で、「雄羊を全部祭壇の上で焼いて」(29章18節)しまう、人の罪の贖いの場でした。
罪は、神と人の間を断絶し死を与えます。その贖いは「命には命」なる等価の償いにより実現します(レビ17章11節参照)。この祭壇こそ、「十字架」そのものを表しました。
契約の箱の「ことば」から始まる人への命の祝福は、契約の箱→至聖所→聖所と出てきます。一方、人が、神とつながり交わる聖所に入るには、最初に祭壇(十字架)を、次に洗盤(聖別)を通らねばなりません。
友よ。神と私たちの交わりに一番必要なお方は仲介者イエス・キリストであり、その極みの十字架です。神は私たちへ十字架(愛)によって来られ、私たちが神に近づくのは十字架(悔い改め、罪の赦し)によってです。
30章18節
洗いのための青銅の洗盤と青銅の台を作ったなら、それを会見の天幕と祭壇の間に置き、その中に水を入れよ。
(注)27章に洗盤の記事はないがここに入れます。
聖所の前には祭壇があり、次に洗盤が置かれ、祭司はここで身を清めて中に入りました。洗盤は、清め、悔い改め、聖別を表します。
主は、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」(ヨハ13章10節・新共同訳)と言われました。それは、「神を信じない罪を悔い改めた(体を洗った)者は神の子である(全身が清い)。しかし、その後犯した罪々(足・世と接した所)を悔い改め(洗い)ねばならない」でした。それはさらに、「日々、自分の十字架を負ってわたしに従え」に通じます。
神を信じた者が犯す罪とは、イエスを神とは信じていても、「主」としていないことです。
友よ。日々の悔い改めが、悔恨であってはなりません。ダビデはバテ・シェバ事件後、「私はあなたに、ただあなたに罪を犯しました」(詩51・4)と言いました。彼の姦淫と殺人罪は、「イエスを主としなかった罪」から出てきました。その罪を知り、悔い改めてこそ、次の行為(姦淫)の罪の悔い改めです。今日も洗盤で手足を洗ってからスタートしてください。
27章20節
あなたは…、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかねばならない。
砂漠にテントを張る民の夜は、どこにも灯はなく真っ暗です。ところが、幕屋だけは常夜灯がともされて明るく輝いていました。
イザヤは、「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る」(イザ60章1~4節)と預言しました。
おお、友よ。暗き世と、愛する者の闇は、だれが取り去るのか。それは、「わたしは世の光」と言われるキリストだけです。そして主が、「あなた方は世界の光です」と続けたあなた方こそ、「山の上にある町」(マタ5章14節)なる教会です。 教会が輝かねば、世界は暗闇です。そのためには、一人ひとりが純粋な油(キリストだけ)となり、燃えねば(自分に死なねば)輝けません。