キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第24章

24章2節

「モーセひとり主のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」

神は、これまでに語った言葉を、文字にするためにモーセをシナイ山に呼び出します。そこには、モーセが一人で行きました。

体の一つ一つの細胞は、それぞれが独立した命を持っていますが、他とのつながりがあって生きています。人も同じように、まずは各個人が「人」として独立し、なおかつ他者とのつながりと交わりの中に生きます。

人の核とは、神の言なるイエス・キリストです(Ⅰヨハ5章12節参照)。その命は、モーセが一人で神の前に出て直接受け取ったように、他者と一緒にはできません。生まれる時は多くの助けがありましたが、臨終の時は親も伴侶も子も、最後まで手助けはできません。できるのは、主だけです。すると、人生の一番大切な時…命の始まり・罪の赦し・復活の命・そして肉体を脱いでから最初に行くところも主の御前です。大事なのは主との関係です。

友よ。人生の大切な時は、「主と自分の二人だけ」になります。だから今日の一日の中で一番大切な時は、主イエスのみことばを聞き、応えて祈る時(礼拝・交わり)です。

24章4節

モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは…山のふもとに祭壇を築き、…十二の石の柱を立てた。

神が語った言葉を、モーセはことごとく書き記し、石を積み、そこで礼拝しました。

これ以後、ユダヤ人たちはみことばを書き残しました。「それをあなたの指に結び、あなたの心の板に書きしるせ」(箴7章3節)とある、「指に結び」の言葉は、指は作業をする器官から、「実行せよ」とも聞こえます。そして、モーセは書き記したものを民に告げた後で、祭壇を造り、皆で礼拝しました。

《ある中国人クリスチャンの証し》

「一冊の聖書は、何十人の聖書となります。自分が借り受けたときは、徹夜して書き写します。それを仕事中も、どこにいても朝から晩まで読み、家に帰っても読み、何週間も読み続けすべてを心に入れてしまうのです」…と。これが、「指に結び、心の板に書く」ことでは!

友よ。この中国人クリスチャンの姿は、礼拝する者の姿ではないでしょうか。それは、いつも神の御声を聴き続け、心の板に書き記しているからです。そして、それは「主イエスを中心として生きる」ということです。今日も、神を礼拝する一日としてください。

24章9節

それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、…イスラエルの長老七十人は上って行った。

モーセとアロンが真ん中に、その周りにナダブとアビフ、さらにその周りに七十人の長老たちがいました。教会の中心は主イエスですが、兄弟たちの一致と働きが必要でした。

キリストの体を造る賜物には、体の骨格を造るものと、霊の働きがあります。骨格の賜物は、使徒・預言者・教師・牧師・執事などで(エペ4章参照)、さらに①伝道、②牧師、③教師、④執事の四つの賜物に分けることもできます。

1つの教会に一人の牧師では限界があります。伝道の賜物の人は、何十年教会に集う信徒にも伝道メッセージを語り、賜物が教師の人は、幼い信者を書斎に引き入れ、執事が賜物の人は、みことばを解き明かすことに苦しみます。牧会の賜物を持つ人は、比較的よい?ようですが(日本では)。

できれば、教会は一人の「…先生」ではなく、神とモーセと長老たちの関係のように、主に選ばれた「兄弟たち」(使6章1~6節)が、教会の中の教会になり、さらにその周りに皆が集うならば大きな祝福となります。そのためには、「教職」を捨てて「兄弟姉妹」として「賜物」を用い合うべきでは!

24章11節

神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。

神の山に登って行った七十人の長老たちは、神の大きな恵みを得て、神との豊かな交わりを体験できました。

「神を見る者は死ぬ」(Ⅰサム6章19節参照)は旧約の定説でしたが、モーセと長老たちは、神を見たにもかかわらず生きていました。その唯一の理由は、血によって罪を清められていたからです。教会には長老たちが置かれ、彼らはよりじかに神を見る必要のある人々です。

長老は、「責められる点がなく、ひとりの妻の夫であって、その子たちも不品行のうわさをたてられず、親不孝をしない信者でなくてはならない」(テトス1章6節・口語訳)とありますが、それ以上に大切なことがあります。それは、「イエスを主として生きている人」であることです。長老といえども、理想的な家族に整うまでには時間がかかりますが、霊の献身はそれ以上に大切なことです。

長老(牧師も)の務めを得ている友よ。目に見える現実に失望せず、イエスを主とする一点に心を集中して歩んでください。兄弟姉妹よ、長老たちの祝福は自分に帰ってくる恵みです。共に神を見て喜びたいものです。

24章12節

彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう。

(口語訳)

神は御自分の言葉を、石の板に書いてモーセに渡すと言われます。やがて、契約の箱の中に納められる十戒がこれでした。

神の言葉は、パピルスや羊皮紙でもなく、石に刻まれました。石碑は、大きな石を削り、表面を研磨して、そこに固い刃で文字が刻まれます。一度刻まれた文字は消すことができません。同じように、神は人の魂に失われないみことばを刻みます。まず、神を信じない罪という大きな石(原罪)が十字架で割られます。次に、石の表面を研磨(聖別)し、そこにみことばを刻みます。このように刻まれたみことばは消えません。魂にみことばが刻まれる作業には、試練と長い時間が必要です。

友よ。信仰生活の喜びは、世の人々の喜びとはかなり違います。手を叩き、大声で笑うようなものよりも、もっと深く重い喜びです。みことばは、楽しいことよりも、辛く、寂しい孤独の中で少しずつ文字になっていきます。その文字は、「主イエス」です。神の子の喜びは、苦難の中に主イエスを見出すことです。「悲しむ者は幸いなり」、なぜなら「あなたに、主イエスが刻まれるから」です。

24章15節

モーセが山に登ると、雲が山をおおった。

モーセが、石に刻まれる戒めを受け取るために山に登った時、山は神の御臨在の雲に覆われました。このような体験は、モーセだけの経験で、私たちには無理でしょうか。

この現象は、モーセが神の言葉を受け取りに山に登った時であったように、私たちもみことばを受け取りに山に登るならば、神の御臨在に触れることができます。それは、自分の用事を優先したい時…「安息日を聖とせよ」、父母を敬えない時…「あなたの父と母を敬え」、だれかを憎んでいる時…「殺すな」、情欲に心かき乱される時…「姦淫するな」、欲望に負けそうな時…「盗むな」、だれかを貶(おとし)めたい時…「偽るな」、もっと欲しい時…「むさぼるな」など、みことばを真剣に受け取りに行くならば、神の御臨在の雲がおおいます。

友よ。みことばは、自分の自我のまま転がった谷底ではなく、汗をかいて登る山の上にあります。「愛しなさい」を受け取ることは難しいものですが、それを受け取りに山(神の御心)に上るなら、愛する力(御臨在の雲)を神からいただけます。受け取りに上るのは自分の責任です。もちろん、登る力も神に求めてください。

24章18節

モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

神の戒めを受けるために山に登ったモーセを、神の御臨在が覆いました。しかし、すぐにみことばをいただくことはできず、四十日四十夜とどまらねばなりませんでした。

聖書に登場する「四十日」は、ノアの洪水は四十日の雨から(創7章)、ヤコブをミイラにするに四十日を要し(同50章)、ヨシュアたちのカナン偵察も四十日(民13章)、ゴリアテの嘲弄も四十日(Ⅰサム17章)、ヨナが四十日後にニネベが滅びると叫び(ヨナ3章)、イエスの荒野の試みも四十日(マコ1章)、復活して昇天までが四十日(使徒1章)など多く記されています。

それらを総合すると、四十日は神の言葉が成就するまでの忍耐の時、人の内側が探られる時、試練の時です。

神の御心の実現を待つ友よ。あなたにも、神の御心が成就するには四十日(試みの時間…1年・3年・10年…)が必要です。しかし、みことばが実現することだけが救いではなく、四十日四十夜も確かな救いの日々です。なぜなら、その期間、主は苦しむあなたから離れられず、心配で、心配で、付きっきりだからです。主が共にいてくださることが救いです。

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