キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第22章

22章1節

牛とか羊を盗み、これを殺したり、これを売ったりした場合、牛一頭を牛五頭で、羊一頭を羊四頭で償わなければならない。

21~22章には、「償い・弁償・払って・支払い」などの言葉が繰り返されます。

神は人の罪を赦すお方で、その赦し方は徹底し、「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩103・12)とまで言われます。その神が、赦した罪を思い出させ、それを償わせるのはなぜでしょか。

それには、ボンフェッファーの言葉が最善です。「キリストの恵みは、支払いが既に終わっている。あらゆるものがただで手に入れられる、そういう支払い済みの費用は無限に大きく、従って、その使用や浪費も無限に大きい」と。それを彼は、「安価な恵み・高価な恵み」と表現しました。

友よ。主イエスが支払った罪の価は、計り知れないほど高価で、無代価です。それが安価な恵みとなるなら救いから離れ、高価な恵みであればいつまでも大事にします。 主の救いが高価であることがわかるのは、自分が償う犠牲の大きさで知るほかありません。神が「償い・弁償・支払い…」を求めるのは、神の恵みをあなたの中にとどめるためです。

22章4節

もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、…それを二倍にして償わねばならない。

牛や馬を盗み、それが生きたまま手元にあるなら、それを返せばよいと言う訳ではなく、二倍にして償えと言います。

聖書には、「恵み・律法」「信仰・行い」と言われるものがあります。一見、「恵みと信仰」は善で、「律法と行い」が悪と思いがちです。しかし、福音には全部が必要です。ただし、その方向を、律法によって恵みを得、行いによって信仰を完成する、となると間違います。

正しい方向は、恵みによって律法、信仰によって行い、です。この両者は、互いが愛し合うために必要不可欠なもので、愛には「受けて…与える」「与えて…受け取る」関係が当然出てくるものです。主は贖いを無代価で与えてくださいましたが、それを感謝して受け取ったならば、次にそのお方を愛する(戒めを守り、服従して実行する)があってこそ、愛は豊かな命の交わりになります。

主は、私たちが父なる神に犯した罪を、百倍どころか、御自分の命で償われました。神は、私たちに二倍の感謝や謝礼を求めているのではなく、愛を求めているのです。

友よ。愛なる神だから、あなたの愛を求めています。

22章8節

盗人が見つからないなら、その家の主人は神の前に出て、彼が隣人の財産に絶対に手をかけなかったことを誓わなければならない。

神は、盗みや家畜が隣人の畑を荒らすことなど、日常の小さなことに至るまで、こまごまと民に指示を与えておられます。

人間社会には、盗んだ盗まない、それが故意か過失か、など常に問題が起こります。 信仰によって生きるとは、日常生活が神の御心に貫かれることです。そこで、生活する中で起こる出来事の善悪を追及しても問題は解決しません。それは、国、民族、因習によって基準が違うからです。

唯一の解決は、問題を解決するのでなく、その人自身を解決することです。それは、「神の前に出る」ことです。「主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ」(ハバ2章20節)。訴える側も、訴えられる側も、共に神の前に出ること以外に本当の解決はありません。

友よ。「神の前に出る」とは、礼拝すれば、祈れば、ということ以上のもので、「イエスを主としているか、否か」を、それは「神に支配されて生きているか、否か」を問うことです。人の善悪は、神に支配されているか、自分やその他のものか、によるのですから!

22章9節

その双方の言い分を、神の前に持ち出さなければならない。

諸々の争い事は、最初にその人自身が神の前に出ることでした。そして次は、問題そのものを神の前に出すことと命じられています。

…娘が、ある青年から結婚の申し込みを受けた父は、この結婚を神の前に持ち出して考えるように娘を諭した。

それは、
  • この結婚は、お前を今まで以上に神に近づけるか
  • この結婚は、相手と他の人々を更にキリストに獲得する助けとなるか
この2つのことで考え祈りなさいと…。

父のことばは実に賢い提案であり、これが「問題を神の前に持ち出す」ことです。祈って御心を聴くことは、神の前に自分の欲求を押しつけるのでなく、神の基準に、自分の判断が正しいかどうかを問うことです。それは、誰でも「自己中心」という法律を持って生きているからです。

友よ。神にノーと言われる時、または罪であると判断されることに決して失望する必要はありません。なぜなら、罪に向かう自分を止めることができ、次の正しい行動に移るチャンスを得るからです。 「主は、愛する者を、戒められるからである、あたかも父がその愛する子を戒めるように」(箴3章12節・口語訳)。

22章28節

神をのろってはならない。

神や人を呪うとは、恨み妬む者に災いがあるように願うことや、悪口雑言を浴びせることだけではありません。呪うとは、その人の人格を傷つけることです。

奴隷制度は、神が許可したものではなく、人の罪がつくり出した非情な制度です。ゆえに神は、弱い奴隷を必死に守ろうとします(21章1~11・20~27節)。また、不正や正義、悪意のない過失には逃れの場所を用意しました(同13節)。さらに、権力や富に任せて自分を通す現実を食い止めようと、償い、賠償の戒めを定めました(21章33~22章17節)。

これら全ては、人の罪がつくる悪をできるだけ抑え、それ以上に神が御自分で償おうとさえしています。それらの神の愛を無視することは、神への反逆で、神を呪うことになります。

神に守られ、償われてきた友よ。自分を愛する親が、だれかに傷つけられるのを見ることほど悲しいことはありません。愛の神は、自己中心に生きる人々に、全世界で、日本で呪われ続けています。 神の愛を受けた私たちこそ、神の弁護者です。それは、「世の光、地の塩」(マタ5章13・14節)となることで可能です。親は子を守り、子もまた親を守るべきです。

22章28節

民の上に立つ者をのろってはならない。

呪うとは、その人の人格を傷つけることでした。すると、指導者を傷つけないとは、いつも指導者に服従することでしょうか。

ルース・ベネディクト氏は、欧米人が神との関係から罪を意識する特徴を「罪文化」と言い、一方、日本人が持つ特徴を恥ととらえ、「恥文化」と表現しました。 それは、「縦(神との関係・罪)」より「横(人との関係・恥)」を重視する民族性のことです。

信仰は、神との縦の関係があってこそ、人々との横の関係がつくられますが、日本人は縦(神)より横(人)を優先しがちになります。そうすると教会で、「牧師の言葉は、神の言葉」と置き換える間違いに走ります。それは、「バルナバをゼウスと呼び…パウロをヘルメスと呼んだ」(使14章12節)二の舞に陥ります。

友よ。教職者と信徒、と二極化することは、「上に立つ者(教職者」を呪う」結果をつくらないでしょうか。それは、牧師とて一人の兄弟姉妹で、神の憐みによってこの務めを担う者です。 パウロは、人々の面前で真理から外れそうなペテロに注意を与え、守りました(ガラ2章14節参照)。これこそ、呪うのでなく、相手を尊び互いの徳を高めることです。

22章29節

あなたの豊かな穀物と、あふれる酒とをささげるに、ためらってはならない。

(口語訳)

だれでも、自分の人生の豊かさを求めて神を求め信じます。しかし神は、穀物と酒を大胆に捧げなさいと言われます。

豊かな「穀物」と、あふれる「酒」の言葉に、聖餐式のパンとブドウ酒を思いだします。パンは、「これはあなたがたのための、わたしのからだです」。ブドウ酒は、「この杯は、わたしの血による新しい契約の血です」(Ⅰコリ11章24~26節)と主が言われ弟子たちに渡されました。 これは、十字架と復活を見える形で弟子たちに教えるためであり、また聖餐式でパンとブドウ酒を受ける度に、救いの原点に立ち返らせるためでした。

ダビデは、「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」(詩23・5)と言いました。

友よ。私は乏しいお金、賜物、加えて病気であり、平和がない…など、主の恵みを少ししか持っていないので、捧げることはできないと言っていませんか。しかし、あなたには豊かな穀物(復活の命)と酒(罪の赦し)である、「主イエス」が与えられています。そうです、与えれば、与えるほど増える、主御自身を!

22章31節

あなたがたは、わたしの聖なる民でなければならない。野で獣に裂き殺されたものの肉を食べてはならない。

聖なる民であるためには、野で獣に裂き殺されたものを食べるなと言います。ここで、獣に裂き殺された肉とは、サタンの餌食になったもの、とも理解できます。

《ある教会の証し》

心の病をもつ姉妹が、自分の世話をしてもらいたい一心で一千万円の献金を教会に差し出した。教会はこれを受け取り、彼女の御主人に連絡し、「教会で奥さまからお金を預かっています。しかし、彼女の様子をみて、後で返します」…と。そのお金は、獣が裂き殺した肉となり、後に毒となるものでした。汚れた男女関係、職権の乱用、不正の富などに手をつけることは、サタンに裂き殺された肉(罪々)を食べることです。

友よ。サタンの手にあるものを避けると共に、自分がサタンに裂かれた肉にならないために、常に羊飼いの権威の下にいてください。「わたしの羊はわたしの声を聞き…。わたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。 わたしは彼らに永遠のいのちを与え…決して滅びることがなく…だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」(ヨハ10章27~28節)。

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