キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第20章

20章1節

それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。

シナイ山で「十戒」が与えられます。十戒は、私たちの生きる指針です。これこそ、人類に与えられた究極の人生論とも言えます。

だれでも迷いと混乱を避け、正しい道を真っすぐに歩みたいと願っています。そこに、さまざまの人生論が登場しますが、それらは、神が「いるか・いないか」に最初に分類されます。さらに、神を認めるならば、「神の中」か、「神の外」にある人生かに分類されます。

聖書は、「神がいること(信じること)」、そして「神の中で歩むこと(神を主人として生きること)」、それが人の幸福であると語ります。神が与えた「これらのことば」こそ、人の「幸福と不幸」「生と死」の基準となる「モーセの十戒(十のことば)」です。

人の幸福は、
  • 「神のいのちを受け取る」
  • 「神のいのちを豊かに得る」
  • 「神のいのちを隣人に分け与える」
ことです。

主は、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10章10節)と言われました。

すでに神の命を持つ友よ。あなたの命の宝を増やし、人々にも分け与えてください。

20章2節 ①

「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」

神が民を導き上ったのは、「この山で仕えさせる(礼拝する)」ためでした(3章12節参照)。礼拝は、神と人の「継(つな)がりと交わり」のことで、それが「いのちと愛」です(注…あえて「継がり」としたのは、継続を表すためです)。

主は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハ14章6節)と言われました。道は「人生」を表し、真理はその道の「歩き方」を教えます。命は、正しい道を真理によって生きる者が受け取る神との「交わり・愛」のことです。この三つは、三位一体のように「ひとつ」ですが、あえて三つを定義するならば、「道と真理」は「命・愛」を作るためです。

そして、十戒「道であり、真理であり」と言えますが、十戒そのものが命ではありません。十戒が導くところは、主イエス御自身との人格的交わりです。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです」(ガラ3章24節)。

友よ。あなたの人生(道)は主イエスの上ですか。また、神のみことば(真理・御心)に導かれていますか。「御子を持つ者はいのちを持つ」(Ⅰヨハ5章12節)者です。

20章2節 ②

「わたしはあなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」

生きる中で、「あなたがこれをしたならば、私がこれをしてあげましょう」と、「わたしがこれをしてあげたから、あなたもこうしなさい」の両方があります。前者は人の心で、後者は神の心です。前者は報酬で、後者は恵みです。

十戒は、報酬ではなく恵みです。そこで神は、十戒を授けるに先立って、その意味を明確にしました。それは、「わたしがエジプトの国、奴隷の家からあなたを連れ出したから、あなたは与えられた救い、命、恵みを失わないために、十の戒めを守りなさい」と。

人は神に愛される神の子ですが、いつまでも子どもであることから、少し大人になる必要があります。大人とは、相手(神)の立場に立って考え、相手の願いに自分を合わせられる人、すなわち相手を愛することです。

友よ。これから受け取る「十戒」の言葉の原文は、「十の戒め」ではなく「十のことば」であると聞きます。神が、私たちといつまでも愛し合って生きるために、十項目にまとめた愛の告白の言葉です。「それゆえ私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します」(詩119・127)。

20章3節 ①

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」

聖書は契約の書です。契約は、独立した二つの人格が交わるために必要な約束事です。人格は自由の上に成り立ちますが、仏像や自然神(アミニズム)や動物には人格がないので契約は不必要です。

神が人と契約を結ばれるのは、人を独立した人格として創造し、自由を与えているからです。しかも、人を造ったお方なのに、御自分の創造物である人と契約をするというのです。そうするのは、神が人と「愛し合う」ことを求めておられるからです。

「愛」は、独立した者同士が、互いの人格を重んじ、正しい関係(約束)を持つところに派生する「いのち」だからです。そこに喜びがあります。

ただし、この約束、十戒は、神と人が合意して決めたものではなく、神が一方的に定めました。親と幼子が契約をして親子となるのでないのと同じです。また、親は子をよく知っていますが、子は親のことをほとんど知りません。親は子を愛し、子の命を守るために一方的に子に正しい事を教えます。

十戒を親子の関係でみると正しく見え、正しく受け取ることが出来ます。戒めは神の愛です。

20章3節 ②

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」

右の第一の戒めは、続く九つの戒めを一つにまとめたもので、「戒めの中の戒め」「戒めの全て」です。 他の九つの戒めは、第一戒のために存在し、第一戒によって他の九つの戒めは理解されます。ちょうど、「天にいます我らの父よ」が主の祈りの全てを代表しているのと同じです。

神はあなたを独占し、ほかの神々に心が行くことを悲しまれます。他の神々にはいのちがないからです。いのちは、一人の中でなく、だれかとの交わりの中にあります。人と人との交わりに、「人のいのち」があり、神と人の交わりに「神のいのち」が存在します。

いのちは、どんないのちと交わるかによって変化します。いのちのないものと交われば、いのちを持つことは出来ません。

自己中心のいのちと交われば、罪のいのちを持つことになり、悪魔と交われば地獄の子のいのちを持ちます。しかし、まことの神と交われば、「神の子のいのち」が与えられます。

神はあなたに、御自分の永遠で聖いいのちを与えたいので、偽りのいのちを持つ神(偶像)と絶対に交わらないようにと命じたのです。

20章4節

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」

第二戒は、「偶像を造るな」です。最初から偶像があったわけではありません。偶像の出現は、アダムとエバが罪を犯し、「主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」(創3章8節)ところから始まりました。

アダムとエバが、「園の木(自然界)の間」に身を隠したことは、彼らが自然界を「神・いのち・守り・救い」として身を寄せたことになります。 自然界は、人に委ねられた所ですから、人が主役になれる都合の良いところです。さらに、そこに堕落した天使であるサタンがつけ入ります。

もろもろの偶像は、人が罪を隠し、自分を義とするために求めたものです。その罪にサタンが加わると、木や石や鳥やはうものまでも、あたかも生きたもののようになり、病を癒し、奇跡を行い、先祖の過去を言い当てる霊媒として、神のように生きて働くように見えてきます(ロマ1章23節)。

偶像は「罪人の化神(筆者造語=罪人が義人に化けたもの、の意)」です。偶像の根本は、神を神としないで、自分が神になろうとする人の自己中心です。ですから偶像礼拝は、自分を神とする人間の最大の罪です。

20章5節

「それらを拝んで…仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神…。」

愛の契約の第一は、「あなたはわたし以外の者を愛してはならない」です。これは神の度量の小ささ、すなわち嫉妬と独占欲でしょうか。そうです。愛は、愛すれば愛するほど、独占的であり排他的になるものです。

「私の妻(夫)は、他の男(女)も愛しています。私は心の広い妻を持って幸せです」と言う人は愚か者です。すべてのことが満ち足りても、伴侶の心が自分以外の異性に向くなら人生は不幸です。

夫婦が愛し合うための第一の条件は、「他の異性を愛さない」です。他の異性を排除(排他的)して、二人が一つとなればなるほど、子どもや互いの両親や親族、友人や知人など多くの人を喜んで受け入れ、より愛することができます。

二人が一つ(愛)となった強さに比例して、他の人々を隣人として受け入れ愛することができます。ですから、あなた以外を排除する愛は、多くの人々への慈しみ(愛)となります。「愛」の表には「あなたを愛する」が、裏側には「あなたの他は愛さない」があります。

友よ。あなたは神に妬みを起こさせるほど、神に愛されています。

20章5~6節

「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代に…。命令を守る者には…恵みを千代にまで施すからである。」

ノアの3人の子供のうち、2人は父の罪を覆う行いをしましたが、もう一人・ハムは父の罪を皆に言いふらしました。やがてノアは、「のろわれよ。カナン」(創9章25節)と言います。罪を犯した父ハムでなく、息子のカナンが呪われるのはなぜでしょうか。

ノアの言葉は神の預言でした。それは、「ハムよ。お前が悔い改めないならば、お前の子孫(カナン)が呪われる」と言ったのです。事実、神を拒否(原罪)して生きることは、罪にさらに罪を重ね、その結果は子孫に多大な不幸を引き渡します。

神が罪人を呪うからではなく、罪が呪われた人生を作り出すのです。そして、罪の中に生きる人に、神を畏れさせるには、犯す罪の結果を見せねばなりません。三代、四代に及ぶ意味は、神の罰ではなく、悔い改めを迫る神の愛からです。

友よ。不信仰を悔い改め、戒めを守るならば、神は三・四代に及んだ罪を御自身が引き受け、代わりに千代の祝福(永遠の命・完全な救い)を与えると約束しておられます。千代の祝福は、三、四代を飲み込みます。

20章7節

「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」

愛し合うには、相手の名前を正しく呼び合うことが必要です。それは、愛称で呼ばずフルネームで、ということでもありません。名前は人格の総称ですから、相手の人格をそのまま認め、受け入れることを指します。

「君が…もう少しやせていたら・背が高ければ・優秀なら・財産があるなら…愛してあげるのに」と言うならば、相手の名(人格)を正しく呼んで(認めて)いません。また、その人を事実以上に大きな人物とすることでもありません。

愛し合うには、相手を「その人(そのまま)」として受け入れることです。自分の一人よがりと自己中心から相手を評価することが「みだりに(自分中心・一方的・相手の心を無視して)」名を呼ぶことです。本来、偶像の神々と聖書の神が、同じ「神」で表記されることは間違いなのですが…。

友よ。真の神を神(創造主・義と聖と愛のお方・贖い主…)とし、自分を自分(被造物・自己中心・罪を犯しやすい者・弱い者…)とすること。そして、神と自分を正しい位置に置き、正しい関係を持つこと。それが「神、主の御名を正しく呼ぶ」ことです。

20章8節

「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」

愛し合うためには、時間を作る必要があります。都会で働く人々を見ると、往復の通勤に3時間、その上に残業も、帰りは10時、家族と会話する暇もなく、休みの日はひたすら寝ていなければ体が持たない…のは当然です。

人間にとって一番大事なことは、愛することです。そのための仕事・家事・勉強なのに、目的と手段が逆転し、愛することが一番後回しにされます。

忙しいからこそ、あえて時間を作る必要があります。だれかを好きになることは一瞬にしてできるものですが、愛し続けるには多くの時間と努力を注がねばなりません。愛は、一朝一夕には作れません。人同士も、神と人も、愛し合うためには時間を作らねばなりません。

父の神が、「わが子よ。あたしやイエスや聖霊と愛し合うために、時間を作りなさい」と言うのが第四の戒めです。

友よ。あなたの安息日はどうですか。礼拝に毎週出席、時々、行く気になれない…ですか。しかしそれ以上に、「神と会う時間を一週間の中の一日作る」という意識がより大切です。安息日は、神があなたに備えた大切なプレゼントですから、受け取ってください。

20章4~8節

偶像を造ってはならない…主の御名をみだりに唱えてはならない…安息日を聖とせよ。

戒めの全ては、「神を愛する(第一戒)」にかかっています。第二戒から四戒までは、神を愛するための具体的なことについて教えます。戒めには、禁止や束縛などの消極的な面も含みますが、むしろ積極的に神を愛するためのものです。

神を愛するために、次の三つの戒めが与えられています。

【第二戒「偶像を造るな」】
  • 愛や命は、神と私の直接の交わりにある
  • 神と自分の間に、第三者や物を介入させない。愛人・偶像を持たない
  • 愛や命は、神と私の直接の交わりにある
  • 神と自分の間に、第三者や物を介入させない。愛人・偶像を持たない
【第三戒「主の名をみだりに唱えるな」】
  • 愛は相手の人格をそのまま認める。真実と真実の交わりがいのち。神を畏れる。
  • 相手を、自己中心に評価して接することは、みだりに名を呼ぶ。不真実を避ける。

【第四戒「安息日を聖とせよ」】

  • 愛と命は、継(つな)がりと交わりにあり。愛するためにあえて時間を作る。神と交わってから一週間を始める。*「継」を用いたのは、命は継続してこそ存在するからです。
  • 交わりを妨害するものを、休み、止める。

友よ。「心、思い、知力を尽くして…神である主を愛せよ」こそが、戒めの戒めです。なぜなら、愛は律法を完成するからです。

20章12節 ①

「あなたの父と母を敬え。」

神の世界には、権威と秩序があります。それは、いばり(権威)押さえつける(秩序)ためではなく、相手を守り自由にするもので、愛の世界に必要不可欠なものです。

神は、御自分に代わる権威者として親を立てました。親は、神の権威の代理者として、神の愛の権威と秩序に従って子供を養い育てるように命じられています。それには、親自身が神の権威に服従して、神の子となり、弟子とならねばなりません。

子供に親を敬うことを強要するのでなく、子供に敬ってもらえる親になることが先です。子供に対する親の権威の大小は、親自身が神の権威と秩序に従う質と量に比例するものです。(エペ6章4節・Ⅱテモ3章15節参照)。

親が、神の権威と秩序に従って子を育てるならば、子は親を敬います。子の親への愛と尊敬は、「自己犠牲を惜しまず、自分に一番大切なことを、教え訓練してくれた者へ帰される信頼」です。

父なる神は御子イエスを愛し、御子イエスは親たちを愛し、親は子を愛します。すると子は親を敬い、親は主イエスを崇め、主イエスは父なる神に栄光を帰します(Ⅰコリ11章3節参照)。

20章12節 ②

「あなたの父と母を敬え。」

幸福と不幸には方程式があります。それには、お金・能力・地位・家族・健康・国籍・人種・時代なども少し関係しますが、根本的にはそれらと違うところにあります。

それは、「あなたの隣人を『あなた自身のように愛せよ』」(マタ19章19節)とあるように、自分で自分を愛せるか否かです。多くの物を持っていても、自分を愛せなければ不幸ですが、何もなくても自分を愛せたら幸福と感じます。

自分を愛せるのは、自分に価値があると思えるからで、愛せないのはその逆です。自分の価値は、自分自身で作ることはできず、親や他者の愛を受けてこそ持てるものです。自分を愛する愛は、他者によって作ってもらわねば持てませんが、親自身も自分を愛せない苦悩の中で、親になっています。

友よ。神の愛を受けると、親や他者を超えて自分の価値を見い出せます。その時、不完全な私の親であっても、私が神の恵みを受け取るために、神が用いた貴い器であることを知ります。その時、親を敬うことができます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザ43章4節)。神の愛が、親を敬う心を作ります。

20章13節 ①

「殺してはならない。」

殺人を思い立つのは、自分で自分を守り生きねば、と考えるからです。殺人は、自分が生きるために他者を殺すことで、それが行き着いた先が戦争です。自分を守り生きるのは、誰からも守り生かしてもらえないからです。この悪循環が、歴史を血で染めてきました。

神が命じる「殺してはならない」の言葉の裏側には、「生かせ(愛しなさい)」があります。両者の違いは、「相手を殺す」ことは「自分を生かす」ことで、「相手を生かす(愛する)」ことは「自分を殺す」ことです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハ15章13節・新共同訳)。 そして、相手を殺して自分が生きる時は、自分も必ず死にますが、相手を生かすために自分が死ぬときは、自分も生きるものです。

友よ。私たちに必要なのものは愛ですが、問題はその愛を持っていないことです。しかし、解決はあります…「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。 愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(Ⅰヨハ4章7~8節)。

20章13節 ②

「殺してはならない。」

昔は、「土方を殺すに刃物は要らぬ。三日雨が降ればいい」と言いました。そのくだりを、「人を殺すに刃物は要らぬ、無視すればいい」と言えないでしょうか。

この戒めは、肉体上の殺人も含みますが、それを超えた「心の領域」も含み、さらに超え、人の本当の命である「霊の領域」に達します。

主イエスは、兄弟に「愚か者(能無し)」と言うものは、地獄の火に投げ込まれる、とまで言われました(マタ5章22節参照)。その愚か者呼ばわりは、相手の人格を無視することで、これこそ殺人の芽です。すべての人は、神に愛されるために生まれてきましたが、それなのに、「無視し退ける愛のない行為は、相手を「神から遠ざける」ことになります。これこそ人間の本当の霊的殺人です。

「殺すな」とは、「相手を生かしなさい」という言葉でもあり、それは「神に近づけなさい」でもあります。命は「継(つな)がりと交わり」のことで、それは愛です。死は「断絶と孤独」です。 「愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3章14節)。そうです、愛は人と人とを、神と人とを結ぶ完全な帯です。

20章14節

「姦淫してはならない。」

この戒めは、第二戒「偶像をつくるな」の人間版とも言えます。愛するには、「あなたと私」の中に、他の異性を入れてはなりません。夫婦愛には、この戒めが最も重要です。そして夫婦の正しい関係は、親子、親族、あらゆる人間関係の基礎です。

「愛」には、「義」と「聖」の二つの土台があります。「義」とは正しさのことで、泥棒をしている夫婦に本当の愛など育ちません。「聖」とは清さのことで、妻(夫)以外の人を愛しつつ、なおかつ夫婦愛は持てません。しかし、義しく聖く生きる力は人にはありませんから、夫婦愛を保つには、職場や学校の人間関係の何倍も神の知恵と力を必要とします。

聖書は夫婦に対して、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(エフェ5章21節・新共同訳)と言います。

この戒めは、命と愛の尊厳を教えます。「継(つな)がりと交わり」が愛と命でした。偶像礼拝が神との命の交わりを絶つ罪であるように、姦淫は人間の最小単位である夫婦を破壊する罪です。

友よ。この罪から守られる、より積極的な方法は、愛なる神に、神の愛を求め、より多く与えていただくことです。

20章15節

「盗んではならない。」

盗むのは、何かの欠け(不足)があるからです。衣食が欠ければ物を盗み、心に欠け(不満)があれば他者の心を盗みます。盗みは、物だけではなく、心と霊の世界も含みます。

人の心には「穴(ホール)」があるとパスカルが言いました。幼い時はおもちゃ一つで心のホールはしばらくふさがれます。年齢と共にホールは大きくなり、自転車、バイク、車、お金、伴侶、家、地位など、とどまるところがありません。また、一つのホール(欲求)をふさいだ(満たした)と思う次の瞬間、そのホールはさらに大きく広がり、さらに大きな欲求が出てきます。パスカルは、「そのホールをふさぐことのできる唯一のものが聖書(みことば)だ」と言いました。

霊的飢饉(神の命の不足)が、心の飢饉(愛の不足)をつくり、自分の心を満たすために、相手の心を盗み(傷つけ)ます。そして、心の飢饉が物質的飢饉をつくり、お金、物の盗みへと発展させます。 盗みの罪から解放されるのは、神の「みことばと愛」に満たされることです。

友よ。天国の蔵からみことばを盗む、主に喜ばれる大泥棒になっては!(イザ55章1~2節参照)。

20章16節

「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」

この戒め・九戒は、第三戒「主の名をみだりに唱えてはならない」の人間版とも言えます。人格と人格が向き合い、いのちを共有する交わりを持つには、互いに対して「真実」でなければできません。

聖書講解者キャンベル・モルガンは、「名誉とは、その人について他人が形造った評価であり、人格とは、人間の存在において、その人自身についての真実が刻み込まれたもの」と言いました。

神を知らない人は、名誉(人々の評価)で生きようとしますが、神の子は人格(神の評価)で生きようとします。そして、人間同士の命に満ちた交わりと喜びは、名誉によってではなく、良い人格によって作られます。

すなわち、真実であることです。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」(Ⅱテモ2章13節)と言われる主に結びついて離れてはなりません。

偽証は、自分で自分を守り生きようとするところから出る罪です。自分で自分を守らず、神に自分を守っていただきましょう。神は、「私たちは、御前に生きるのだ」(ホセ6章2節)と言う人を守ってくださいます。

20章17節

「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。…隣人の妻…奴隷…牛、ろば…。」

「むさぼり・欲しがって」は、ヘブル語では「不正直な利得」、ギリシア語では「もっと持つこと」だそうです。2つから、「もっと持つために、不正直になる」ともなります。

自分に無いものを持ち、もっと多く持てば幸せになれる、と考えるのは人の常です。ものを持つこと、無いものを得ることは人の自然な要求ですが、神が自分に許す範囲を超えて求めると「むさぼりの罪」になります。

たとえば、自分の収入の範囲で自動車や家を買うのは罪ではありませんが、範囲を超えた高級車や多額のローンを組むことはむさぼりになります。

また、自分の伴侶を超えた異性関係は、貪りの罪から姦淫の罪に進みます。自分に許される範囲以上(もっと持つ)を求めて得たもの(不正直な利得)は「むさぼり」になります。

友よ。神は私たちに、「…貧しさの中に、…豊かさの中に…、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。…私を強くしてくださる方によって…」(ピリ4章11~13節)という宝を授けています。最大の宝は、神によって満足する恵みです。

20章19節

「私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように…」

「十戒」は、神と人、人と人が正しい関係を保ち、豊かな交わりを持つために与えられました。しかし、民はこの光景を「たじろぎ、遠く離れて」(18節)見ていました。

イスラエルの民は、戒めに聞き従うことを約束しますが、その戒めを神から直接受け取るのでなく、モーセを通して受け取ろうとしています。そこから、似て非なる福音と偶像礼拝が始まります。

神の言葉は一人ひとりが直接受け取るべきもので、牧師や兄弟姉妹を介入させてはなりません。モーセから受け取れば、祈り(求め)はモーセに向かいます。だから民は、今までもこの後も、困難に出会うたびにモーセに責任転嫁していきます。

友よ。あなたも神の前に立つモーセです。「いいえ、私とモーセでは賜物が違います」と言いますか。たしかに賜物は違いますが、神の前に一人で出て、直接みことばを受け取る責任は同じです。神からみことばを受け取れば、モーセ(人々)でなく神に祈り、神に責任を求めます。気づかない偶像は、神社仏閣や他宗教でなく、教会の中にいるのでは…。

20章24節

「わたしのために土の祭壇を造り、…羊と牛を…全焼のいけにえとし…ささげなければならない。」

戒めを与えた神は、次に祭壇を造ることをモーセに命じます。そこで、羊や牛などの動物を殺して血を注ぎ、肉を火で焼きました。

戒めを守ることが救いではなく、戒めは人に罪人であることを教えます。人が救われるためには、最初に罪を知らねばなりません。次に、罪から救う救い主も示します。罪・罪の赦し・救い主・罪の赦され方、を見える形で示すのが祭壇であり、羊や牛を犠牲にすることでした。

「祭壇を造り、全焼のいけにえをささげよ」と命じたのは、戒めによって人を救うのでなく、戒めによって人をこの祭壇に連れて来るためです。この祭壇こそ、カルバリに立てられた主イエス・キリストの十字架です。戒めは、罪人を十字架に連れてくる福音でもあります(ヘブル10章19~20節)。

友よ。戒めはあなたを裁く裁判官ですか?確かにそうです。しかし、「戒め裁判官」の判決は、「…さん。あなたに戒め…条により罪を定め、死刑を命じる。従って、あなたにカルバリの主イエスの十字架行きを命じる」と宣告します。戒め裁判官の判決は厳しいですか?いいえ、真実な愛があってのことです。

20章25節

あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。

神は、祭壇を造る時は土で造るように勧めますが、石で造る場合は、のみを当てて加工した切り石で築いてはならないと命じます。

戒めも罪の赦しも、人の都合や諸条件を加味して決めることではなく、神の主権です。しかし、神が定めた戒めや儀式に手を加え、理解し易く、納得できるように加工したくなります。

聖書を読む時も、神の御心(戒め)を自分の都合に合わせて解釈し、自分の犠牲が少ない儀式(礼拝など)に変え、奉仕(捧げる)を簡素化してしまいがちです。

ペテロも、「それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています」(Ⅱペテ3章16節)と忠告しました。ただし、聖書理解は一字一句字義通りであれ、と言うことでもありません。

友よ。「舟の右側に網を降ろせ」と主に言われたら、左側(人の側)でなく、右側(神の側)に降ろす(服従)ことが聖書理解です。それは、みことばや祭壇に、のみ(自分の考え)を当てないで、神の御心を受け取ることです。土の祭壇はそのままですが、石の祭壇はのみで削り(人の考えを入れ)、一度造ったもの(石の心)は変えられなくなります。

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