キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第19章

19章1節

エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野に入った。

民は、3ヶ月後にシナイ山に到着しました。かつて、「あなたがたは、この山で、神に仕える(礼拝する)」(3章12節)と言われた神の言葉が成就しましたが、それは民の従順によるものではありませんでした。

神の御計画が、人の不従順で無効になるならば、神は全能であるとは言えなくなります。しかし、パウロはユダヤ人の不従順に対して、「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだと…。そのとおりです」(ロマ11章19・20節)「イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までで、…イスラエルはみな救われる…。神の賜物と召命とは変わることがありません」(25~29節)とも言いました。

神は、人が不従順でも、忍耐し、憐み、御自分の御計画を必ず実行されます。それは、私たち人間の幸福のためです。

友よ。罪(エジプト)から贖い出された後、不従順を重ねていながら、今なお信仰を持ち続ていられるのは神の憐みです。ですから、不従順な自分に失望しないでください。つぶやくイスラエルの民をシナイ山に導いたように、あなたへの導きも必ず完成されます。

19章4節

エジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。

神は民に、「エジプト(サタンと罪と死)から神の山シナイまで、鷲の翼に載せて連れてきた」ことを思い出すように告げます。

「鷲の翼に載せ」とは、人生が「平面」から「立体」になることです。平面の世界では、行き着く先に死の谷が待ち構えます。立体の世界は、死の谷へ落ちるどころか、空中に舞い上がります。

平面の世界は、人生の問題の山に直面し退かねばなりませんが、立体の世界は飛び越えさせます。

平面の世界は、能力や健康、お金などに支配されますが、立体の世界は病気や能力の少ないことすら踏み台にして、神の御もとに羽ばたかせます。平面の世界を歩くには自分の足を強くせねばなりませんが、立体の世界は神の背中(鷲の翼)に載せられるので、弱い自分でも大丈夫です。

「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザ40章31節)。

友よ。私たちを背負い天へ上られる主をほめたたえましょう。

19章5~6節

「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは…わたしの宝となる。…わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」 

酒に酔った(世に支配された)民は、「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」と神の戒めを嫌います(イザ28章7~15節)。 事実、聖書はうるさいほど、「神に聞き従え」「契約を守れ」と語り続けます。それは、神の戒めを守ったなら、神の子になれるからではありません。

人は元来、「神の宝・祭司の国民・聖なる国民」であったのですが、そこから外れてしまいました。ですから、聖書の救いを「贖い=買い戻す=回復」と言います。

神は、あなたは私の「宝・祭司・聖なる」者だから、神に聞き従い戒めを守れと言います。人の幸福は、長寿・安楽な生活・健康・物・能力などで作れません。幸福は、「自分で自分にどのように満足するか」です。その満足を自分で作ることが「悟り・行い」で、神に作っていただくのが「信仰・恵み」です。

友よ。あなたの幸福を、周りの環境や自分の行いに置くならば、死をもって崩れますが、神に置くならば崩れません。だから、その神と一つでいることが必要です。戒めや教えは、神とあなたをつなぐ接着材だから大事です。

19章9節

主は…「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」

神はモーセを信頼し愛しています。そこで、モーセが御自分のしもべであることを、濃い雲の中から直接モーセと語り、御臨在を現すことで人々に証明すると言われます。

神とイスラエルの民との間には、いつもモーセが立っていました。それは、神と、神の御心を取り継ぐモーセが重なり、モーセの言行が神と民の関係を左右することになります。

神は民が「モーセを信じるため」に、このことをしました。同じく、神の子たちも小モーセですから、神と人々の間に立つために恐れが出てきます。しかし神は、民がモーセを信じるようにされたように、神の子を証明してくださるのも神御自身です。「…キリストのうちに保ち…、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました」(Ⅱコリ1章21・22節)。

友よ。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』…」(ロマ10章15節・新共同訳)とありますから、背後におられる神を信じて福音を伝えてください。

19章12節

「…山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。」

19章は、モーセの十戒を受ける20章に備えるための章です。神はモーセを山に呼び出す前に、民が身を清めること、山に近づかないこと、手で触れることさえも禁じました。

聖書全体のメッセージは、「神は、人と一つになるために、御子イエスをお遣わしになった」(ヨハ17章21~23節参照)です。

神が民をエジプトから連れ出したのは、「この山で仕え(礼拝)」させるためだったのに、「近づくな、触れるな、死ぬ」はそれに逆行します。神に「近づけ(一つ・救い)」「近づくな(死ぬ)」の両者の矛盾を解く鍵は「罪」の存在です。神は「義・聖・愛」なるお方ですから、罪人がそのまま近づくならば、神の「義と聖」ゆえに死ぬことになります。

友よ。神は厳しいお方ですか。否、神は「愛」なるお方です。神は人と一つになることを求めます。だから、神は人に最初に罪を教えねばなりません。それが十戒です。また神は命の道を教えねばなりません。それも十戒です。十戒は、人に罪を教え、神に近づく道を教えます。「近づくな・死ぬ」は、主の十字架によって「近づけ・生きる」になります。

19章13節

「…しかし雄羊の角が長く鳴り響くとき、彼らは山に登って来なければならない。」

神は、主の山シナイでイスラエルの民に御自分を現されますが、雄羊の角笛が長く鳴り響くまでは近づけません。それ以前に近づいた者は、死なねばなりませんでした。

雄羊の角笛は、殺された雄羊の角を笛に加工したものです。この殺された雄羊こそ、民の罪に身代わりとなった神の小羊イエスです。「…自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛(雄羊)を、罪のためのいけにえとして…ほふりなさい。…その雄牛の全部を、宿営の外(ゴルゴタ)で、…たきぎの火で焼く(十字架刑)…」(レビ4章3~12節)。

しかし、ほふられた雄羊イエスは、三日目に復活して人々に現われ、「汝の罪、赦された。さあ神の山に登って来い」と語ります。角は「権威と力」を表し、笛の音は「神の言葉」です。

友よ。あなたもこの角笛の鳴るのを聞きました。だから、もう神を恐れることはありません。この角笛は、「父よ彼らを赦してください。わたしが彼らの罪の代価を払いましたから」と続けて鳴り響きます。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる」(イザヤ2章3節)。

19章18節

シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。

シナイ山は煙に包まれ、火が燃え、その炎の中に主がおられ、さらに煙が天に向かって立ち上がり山は震えました。天から降りてこられた神は、そこでモーセと語りました。

人となられた主イエスは、遠回りしてサマリヤの女を訪ねて語り、石打ちにされる女の傍に居続け、病や悪霊に苦しむ者を深く憐れまれた優しい友なるお方です。しかし、ここシナイ山における御臨在には、最後の審判の法廷を思わせる緊張と恐れがあります。それが、「律法」と「福音」の違いです。

モーセが受け取るのは神の律法で、それは火のように罪を暴いて裁きます。罪人には、律法は恐れです。主の来臨は、律法の欲求を御自分が満たし、人々に赦しと命を与える福音ですから、恵みと慈しみに満ち、恐れはありません。

友よ。あなたは新約時代に生を受け、みことばと聖霊により神に出会い、多くの証人に囲まれ、旧約時代にない多くの恵みを受けています。「恐れ」は必要ありませんが、だからこそ、愛の神への「畏れ」は、旧約時代の人々以上に持つ必要があります。

19章20節

主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。

モーセは、神から呼ばれて御臨在の山に登り、みことばを受け取り、それをもって民の所へ下って来て神の御心を伝えました。

モーセの姿は、私たち神の子の姿でもあります。まず、自分自身が主の御臨在の中に入らねばなりません。それは、物理的な現象のことではなく、霊的に「火と煙と地震」に身を投じることです。

  • 火…罪を焼き尽くす清め
  • 煙…神の御臨在と人が神に献げる藩祭(献身)としての信仰(創8章21節参照)
  • 地震…それまでの自分の人生の立場、思い、考えが崩される)

シナイ山で現された神の御臨在(火・煙・地震)は、神の言葉十戒と切り離すことはできません。神の言葉によって、霊の火と煙と地震がおこされ、そこで神と出会うことができるからです。

礼拝や集会で聞くみことばが、あなたにとって火、煙、地震となることを願います。みことばが「火・煙・地震」となって、人は変えられます。友よ、みことば(火・煙・地震)の中に入って行ってください。そこで神を見ることができます。

ページトップへ