16章3節
「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、…死んでいたらよかった。」
マラで苦い水が甘い水に変わり、エリムで十二の泉と七十本のなつめやしの恵みを得た民でしたが、シンの荒野で食糧が尽きた時、モーセに右のようにつぶやきました。
彼らがかつて、「肉なべとパンに満ちていた」と言いますが、それは彼らの記憶違いです。事実は、奴隷の身分と苦役で、今にも死にそうな状態になっていました。
人は、相手を説得する時、自分に都合の良いことは思い出し、悪いことは忘れるものです。そして自分に都合の良いことを「善」とし、都合の悪いことを「悪」と受け取ります。
悪魔は、「絶頂か、絶望か」の両極端に導き、小さな困難でも、これからの全てに影響を及ぼす悪であるかに見せて絶望させます。この時、「私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考え」る(詩篇77・12)ことです。
友よ。結論を出す前に、過去の恵みを正しく数えてください。思考軸を「マイナス」でも「プラス」でもなく、「主イエス」に戻してから考えを進めてください。
16章4節
「外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしの教えに従って歩むかどうかを、試みるためである。」
神は、マナに対する態度によって、人の心(信仰)を確かめていると語ります。その態度とは、「毎日1日分(4節)・早朝(21節)・1オメル・自分の分だけ(16節)6日目は翌日の分も含め2オメル(22節)」、これらに忠実であるか否かであると言います。
使徒たちは、神の子として生きる上で大切な四つの柱は、 ① 使徒の教え(みことば)② 信徒の交わり ③ パン裂き(礼拝)④ 祈り(使徒2章42節)であると教えています。
そして、みことばが最初に置かれていることから、みことばに対する態度が、その後の交わりや礼拝や祈りを左右すると理解できます。従って、交わり・礼拝・祈りは、みことばからスタートする、と言っても過言ではありません。
友よ。みことばを好きになる秘訣は、わずかの時間を見つけてでも、聖書を読むことです。聖書を読むと、聖霊の命が活動し、霊のパンへの食欲を起こします。反対に、みことばを読まないと、霊の命は弱り食欲が失われます。小さな聖書をいつも持ち歩き、何処ででも、五分でも、十分でも目を通してください。
16章7節
「主に対するつぶやきを…主が聞かれた…。あなたがたが、この私たちにつぶやくとは、いったい私たちは何なのだろう。」
モーセは、「パンを、肉を」とつぶやく民に、「私たちを何と思ってつぶやくのか。私たちは人ではないか」と反論します。
つぶやきと祈りは反対方向にあります。つぶやきは、この世の祝福を求める者が、自分の願い通りに得られない時に出ますから、この世と他者への祈りです。祈りは、神に祝福を求める者が、不足や人生の解決を神に直談判することです。
主は、「天の父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられる」から、パンや肉が必要な時は、それらを直接自分で求めるのでなく、先ず、自分の心が「神の国(神に支配)」にされ「神の義(神の御心を受け入れる)」になるように祈りなさいと言われます(マタ6章31~34節参照)。
岡山で孤児院を造った石井十次師は、二畳の部屋の畳がすり切れ、祈る手に力が入り、机の表面が磨り減ってくぼむほど、全てのことを神に祈り求めたと聞きました。
愛する友よ、私たちも、モーセにつぶやくのでなく、先ず、自分が神に支配され、正しくされることを祈りましょう。後は、「添えて与えられます」。
16章15節
イスラエル人はこれを見て、「これはなんだろう」と互いに言った。
神は民の求めに応じ、「夕方には肉を、朝にはパン」(12節)を与えました。この後、「…彼らに天からパンを与えて食べさせた」(ヨハ6章31節)と言われる、天からのパンを食べる四十年間が始まります。
マナは、神のみことばの代名詞です。マナの特徴は、マナの持つ5つの特徴は、みことばが持つ特徴と同じです。マナを見た人々が「これはなんだろう」と言い、そこから「マナ」と呼ばれました。神の言葉も不思議です。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです」(ヨハ6章33節)。
友よ。神の不思議は、神の命の種であるみことばによって始まります。種を受け入れると、その種の命が「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません」(マコ4章27節)。自分の能力を超えて、良き実を結ばせるみことばこそ、マナです。
16章21節
彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。
神のマナは、「1人に1オメル・日が昇ると溶けて集められなくなる・翌朝まで残してはならない・6日目は安息日の分まで2日分を集める」などの決まりがありました。 とくに、「朝ごとに」は重要です。なぜなら、「神がそのように語った」からで、神の言葉は人の考えをはるかに超えて合理的なものです。
早朝は主に出会う最善の時です。1日の仕事が始まると(太陽が昇ると)、神の言葉はこの世や仕事や雑事に覆われて(溶けて)、世の出来事よりも小さくなってしまいます。また、聖書に登場する信仰の先人たち、アブラハム(創22章3節)、モーセ(出34章4節)、ヨシュア(ヨシ6章12節)、ダビデ(Ⅰサム17章20節)は、朝早く祈るという法則を用いていました。
友よ。神が備えた今日のマナを、日が昇る前(仕事の始まる前)に集めましょう。創世記、出エジプト記、ヨシュア、サムエル記…福音書などから食べるマナは、アブラハム、モーセ、ヨシュア、ダビデたちが受けた神の導きと体験を、今日の自分のマナとして食べて歩むことになります。
16章33節
「つぼを一つ持って来て、マナを一オメル…その中に入れ、それを主の前に置いて…。」
世の中、多く食べる人と少なく食べる人・体重の重い軽い・背の高い低い・老人と赤ちゃん・資産家と貧しい人・能力のある人少ない人…など千差万別です。
しかし、マナは全ての人に「1オメル」(16節)与えられました。これは、神が人に与える命の量に差別がないことを表します。
また、民が納めた神殿税も、貧富、地位、年齢、職業に関係なく「半シェケル」でした。神が人に与えるものに差別がないように、人が神に差し出すものにも差別がありません。
神が全ての人に平等に与えてくださるものは、「罪の赦しと永遠の命」で、永遠の命に「大小・尊卑・完全と不完全」の差別はありません。人が神に差し出さねばならないものは、「罪のいのち」で、罪にも大小の差はありません。
友よ。私たちも「1オメル(永遠の命)」を神からいただき、神に差し出さねばならないのは「自分の罪」です。神は私たちのために「主イエス御自身」を与えてくださいました。そして、私たちが神に差し出すものも「私自身」です。従って、献身者と平信徒?などの差別はなく、忠実なしもべか否かだけです。
16章35節
イスラエル人は人の住んでいる地に来るまで、四十年間、マナを食べた。
民がヨルダン川を渡り、カナンに入るまでマナを食べたように、神の子は天の御国に入るまで、「みことば」を食べて生きるものです。
昔は、食べることが人生の最優先課題で、争うほどの緊張と競争がありました。しかし今は、飽食時代となり緊張はありません。同じく、迫害下では隠れてみことばを読む緊張がありますが、信仰の自由と何冊もの聖書を持てる今は、みことばへの貪欲と緊張感が薄れました。
この世のもの(物質・娯楽・快楽・名誉・地位など)に心が支配されると、マナに対する食欲を失うものです。従って、日が昇るとマナが溶けたように、みことばも世が動き出す前に得ないと溶けてしまいます。ですから、現代でもみことばを食べることは、最優先課題であり、競争と緊張が必要です。
健康体である証拠の一つは食欲です。神の子として健康であるか否かの判断も、みことば(マナ)への食欲(飢え渇き)によって判断できます。
友よ。私たちもモーセと共に、「どうか、朝には、あなたの恵みで私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください」(詩90・14)と祈りましょう。