キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

出エジプト記 第14章

14章1~2節

主は…仰せられた。「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間に…宿営せよ。」

イスラエルを導く雲の柱は、コースを南に変えました。そこは引き返す以外ない袋小路で、前は海、後はエジプトです。時に神は、御自分の子を危険で困難な所に導かれます。

困難には、自らの罪や選択によるものと、それを超えて受け取るものがあります。この度、民が直面した困難は、彼らの罪でも判断違いでもありませんでした。 自分で選ばない困難に直面する時は、神の雲の柱が動き導いていると信じることができます。そして、神が選び与えるのであるならば、いち早く神の意図を知ることで不安から解放され、正しく対処することができます。

友よ。あなたが神ならば、人に何を一番与えたいですか。真っ直ぐで安全な道?海に直面しない道?家内安全・商売繁盛・無病息災ですか(時にこれらは神から人を離します)。 神が与えたいのは「自分自身」ではないでしょうか。前後左右が閉じられる時、人は初めて上(神)を見上げます。袋小路は、全能の父に直結している路(みち)です。神は、あなたに御自分を見させ、御自分を与えようとしています。

14章5節

パロとその家臣たちは…考えを変え…「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせ…仕えさせないとは。」

パロは、イスラエルの民を追い出したのに、民が行き詰まると見るや考えを変えました。

彼の行動は、自分の意志ではなく、「主の力強い御手」(13章9節)に負けたからでした。このことは、神と神の子たちの間にもあります。

神は、良いことでも人に強要できないので、試練を用意して御心に適う者にしようとされます。試練を正しく受け止めるには、それが「神から来たこと」と「自分にとって必要なこと」の二つを受け入れる必要があります。

パロは、自分を守るために許可しましたが、「神から」とも「自分に必要なこと」とも認めないので、簡単に考えを変えました。それと反対に、神の御心でないのに、御心と勝手に信じることも困ります。

友よ。神の御心なのに否定し、神の御心でないのに自分で御心を作ることに気をつけてください。「すべて信仰によらないことは、罪である」(ロマ14章23節・口語訳)に当てはまります。また、その様な人は、「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く」(ヤコ1章8節・新共同訳)人になってしまいます。

14章10節

…エジプト人が彼らの後に迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。

エジプトを出て北上するならペリシテ人が待ち構え、南下すると海に阻まれ、引き返すならパロの戦車隊がいます。その時、彼らは「主に向かって叫んだ」とありますが、次の節には、「そしてモーセに言った。『エジプトには墓がないので、…私たちを連れて来て、…私たちをエジプトに仕えさせてください』」(11~12節)とも。

信仰は、全存在をかけた決断です。民は、解放の恵みに喜んでいた時はモーセを褒め、今は責任転嫁しています。神の子は、自分に良いことがある時は、神や牧師や指導者を褒め、不利になると責めます。

信仰は、一人ひとりの責任です。様々の事情で、どうしても教会を離れなければならないこともありますが、主御自身から離れるなら、それはその人自身の責任であることを自覚すべきです。

友よ。「主に向かって叫んだ」祈りを、モーセ(人)に振ってはなりません。恐れが出てきたら逃げるのでなく、良い判決を求めて裁判官に叫び続けた女(ルカ18章1~8節)のように、なお一層神に祈ってください。

14章13節

「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。」

神の民は、前は海、後ろはエジプトの軍隊に追い詰められ、恐怖で泣く者、モーセに向かって「エジプトに墓がないから…。荒野で死なせるためか」(11節)と叫ぶ者もいます。

問題の本質が見えないと、恐怖心や他者への恨みや物事への責任転嫁が出てきます。ヨセフは、兄たちに売られ、主人の妻の気まぐれによって牢に入れられました。詩篇は、「ヨセフは鉄のかせの中に入った」(105・18)と記しますが、「ヨセフに鉄(筋金)が入った」と言い換えることもできます。

その筋金とは、「このことは、神がよしとして導き、神の栄光を現すためであり、自分にとって最善である」と受け取る信仰です。ヨセフが誰をも恨まず、牢獄で十年も忍耐し続けられたのは、彼の中の筋金が支えたからです。

問題や出来事に押しつぶされそうな友よ。それらを恐れず、神によって受け入れてください。そうすれば、あなたもヨセフのように筋金入りの神の子となり、「しっかり立つ」ことができます。そして、時がくれば必ず「主の救いを見る」ことができます。

14章14節

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

恐怖に震える民に、「黙っていなさい」と神は命じます。しかし、黙ることは叫ぶことよりも難しいものです。誰かに誤解され、悪口を言われ、不条理や理不尽な立場に追いやられる時など、自分を殺して沈黙することは、弁明し叫ぶことの何倍も忍耐が必要です。

神が求める沈黙は、ただ耐えることではありません。それならば、自分の力の限界を超えたら爆発します。それは、歯をくいしばり、身をかがめて耐えることではなく、「他のことには黙って(無視して)より積極的に私を求めよ」です。

「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み」(ロマ5章3・4節)とのみことばを逆に読むと、「『希望』を持つならば叫ばずに済む『練られた品性』が与えられ、練られた品性によって『忍耐』することができる」とも受け取れます。主こそ希望です。そしてそれらの始まりは、「患難」からです。

愛する友よ。主は、「私が、あなたのために御業を行う(戦う)から、他に期待することは止め(黙って)、私にのみ期待せよ」と強く言われます。

14章16節

「あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、」

戦車隊が背後に迫り、前は海で進めません。それなのに、「前進せよ」(15節)と神は命じます。このような時、敵の剣と海でおぼれ死ぬのと、どちらを選ぶでしょうか。

命の道は前(海)にあります。パウロは、「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。…もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きる」(ロマ6章4~8節)と言いました。

前にある海は、水(バプテスマ)を啓示します。人は、世なるエジプトと戦って勝つか、キリストによって罪に死に、復活によって生きるかの決断を迫られています。 しかし、たといエジプトの戦車隊に勝利しても、そこはなおエジプトです。そして、さらに強力な軍隊が挑んできます。エジプトを脱出(出エジプト)して、カナン(神の国)へ移ることが救いです。

愛する友よ。命の道は、主と共に十字架で死に、主の復活の御霊によって生きることです。「手を海の上に差し伸ばせ」とは、その事に同意する「信仰告白」です。信仰告白が、海(死)を二つに割り、命の道を造ります。

14章19節

イスラエルの陣営の前を進んでいた神の使いは、移って、彼らのあとを進んだ。…雲の柱は彼らの前から移って、彼らのうしろに立ち…

昼は雲の柱、夜は火の柱が神の民を導き守っていました。民が移動するのは昼ですから、雲は彼らの先に置かれていました。それが今、雲は後ろに回って、民を守ります。

人々はクリスチャンを、焼香しない・酒タバコを飲まない…融通の利かない「堅物」と見ているようです。しかし、神がそうなのでしょうか。否、神は民を守るために、前に置いた雲を後ろに移動させました。

神は、民のために臨機応変に今までの方法を変えました。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラ5章6節)。「信仰によって」と言いながら、中身である愛を忘れては本も子もありません。

多様化した社会で、主日午前中に礼拝に出席できない人がいるなら、その人を責めず、2~3人であっても夜に礼拝を設けることも、前の雲を後ろに回すことです。

友よ。信仰を堅く守る「堅物」は良いとしても、律法主義の「型物」は困ります。神は、前(建前)を後ろ(愛)に移して民を守りました。

14章20節

エジプトの陣営とイスラエルの陣営との間に入った。それは真暗な雲で…夜を迷い込ませ、一晩中、一方が他方に近づくことはなかった。

神の雲が民の後方に移ったのは、怯える民をエジプトの軍隊から隠し守るためでした。

生きる上で起こる問題(金銭・仕事・健康・家族など)は、帰するところ人間関係です。 問題が深刻なほど、「誰かが、間に入ってくれたら」と思うものです。試練の中のヨブは、「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいない」(ヨブ9章33節)と嘆きました。

仮に、人と人の問題に誰かが入って解決できたならば、それは小さな問題だったからです。この時、イスラエルの民とエジプト軍の間にある問題は「死」でした。

主が朝の9時に十字架に付き、昼の12時に黒雲が空を覆い真っ暗になりました。その雲は、御子が人類の罪を背負ったゆえに父なる神と断絶したことを示します。それはまた、神の裁きから人を隠すことにもなりました。

友よ。あなたと死の使い(罪)の間に割って入るのも、義の神とあなたの間に入って隔ての中垣を取り除き1つにするのも、主イエスのみです。ヨブにもあなたにも、主イエスがまことの仲介者です。

14章21節

そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。

「神の御業を見ることが信仰です」と言っても、何もせずに「棚からぼた餅」を待つのではありません。それは、モーセのように、手を海に差し伸ばすことです。ここで、モーセが上げた手は、両手だと信じます。

聖書は度々、「右」を神の側、「左」を人の側として表現します。それは、主がペテロに「(左側でなく)舟の右側(神の側)に網をおろしなさい」(ヨハ21章6節参照)と言われたことでもわかります。

モーセが上げた左手は、後ろから迫るエジプトの軍隊と、目の前に迫る海の力に対する「降伏の手」です。もう一方の右手は、信仰の杖を握りしめた神への「信頼と依存」を表すものでした。

友よ。両手を上げねば無力です。左手だけなら、自分や敵に降伏しても、神に期待する信仰の杖は上がりません。右手だけなら、神に期待しても、自分や世にも期待しています。自分の無力と神への期待は表裏一体です。「悔い改めて(左手)福音を信じよ(右手と杖)」です。その時、主は海(困難・罪、死)を退け、命の道を開かれます。

14章22~23節

イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。…エジプト人は追いかけて来て、…みな彼らのあとから海の中に入って行った。

神の民を追撃したパロの戦車隊は、水の中に沈みます。「十戒」の映画で見た光景が目に浮かびます。同じ海なのに、神の民には恵みとなり、エジプト人に災いとなりました。これは全ての人にやがて臨む現実です。

肉体を脱ぎ捨てる時は、水の中に沈むかのようです。空気(世の命)がなくなり、意識を失い、心肺停止になります。エジプト人にそれが起こりましたが、神の民は海の中で呼吸しているかのように生きていました。

それは、「主(父なる神)は大きな魚(主イエス)を備えて、ヨナをのみこませた」(ヨナ1章17節)出来事のようです。後に主は、このことを御自分の十字架と復活に結び付けて語りました(マタ12章39・40節)。

ノアの箱舟を洪水(裁きと死)から守ったのは、舟の板と板の間に塗られた「ゴフェル木(ゴム科)の脂(やに)=アスファルト」でした。それは、主の十字架から流れて出た贖いの血です。後に、「贖い」の言葉は「脂」から派生したと言われています。

友よ。人の生死を分けるのは、主イエスの血潮です。

14章24節

朝の見張りのころ、主は火と雲の柱のうちからエジプトの陣営を見おろし、エジプトの陣営をかき乱された。

パロの戦車隊は、神の民を追いかけて海に入って行きました。主はその様子をしっかりとご覧になっていました。

「神は霊です」(ヨハ4章24節)から、格(神格)を持たれ、思い、考え、計画し、行動を起こされます。神は、雲と火の柱をもってイスラエルの民を守りましたが、パロの軍隊には、「雲と火の柱のうちから見て…かき乱し」ました。

同じ雲と火の柱なのに、片方は守り、もう一方は裁きました。「雲」は、神の御心を示すみことばを、「火」は世と神のものを分ける聖別を表します。神の雲と火の柱に従ったイスラエルは守られ、それに逆らったエジプトは裁かれました。

友よ。神の雲と火の柱の導きに従って飛び込む海は、「救いの海」となりますが、雲と火の柱の警告に聞き従わず入って行く海は、「裁きと死の海」となります。 今日も神の雲と火の柱は、あなたの前後を囲んで導こうとしています。どんな困難が迫ってきても、雲の柱と火の柱の間に留まってください。神はあなたを必ず守ってくださいます。

14章25節

それでエジプト人は言った。「イスラエル人の前から逃げよう。主が彼らのために、エジプトと戦っておられるのだから。」

民を追いかけて海に突入した戦車隊は、思い通りに進めないことから、自分たちが戦っている相手が神であると気づきました。

人生には、職場・病気・経済・対人関係など多くの戦いがありますが、最大の敵がだれであるかを知る人はわずかです。主イエス御自身、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方(御自分)を恐れなさい」(マタ10章28節・新共同訳)と言われました。

主は、人の罪と戦うために来臨し、十字架につきました。そして、人を聖別するためには試練を与えて戦います。さらに、罪とサタンを完全に滅ぼすために再臨されます。

友よ。「陣営の乱れ」(24節)と「車輪のきしみ」(25節)を日々の歩みの中に感じたら、そこに神の存在を見て、すぐに引き返す(悔い改め)べきです。悔い改めに遅いということはありません。主は、十字架刑を受けている強盗にも、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23章43節)と言われたのですから、遅すぎません。

14章31節

イスラエルは主がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。

民は、モーセに導かれて紅海を渡るまでにも、多くの神の御業を見ましたが、それが信仰になっていませんでした。そこで聖書は、戦車隊が水に沈むのを見て、「主とモーセを信じた」と再度記す必要がありました。

民は、ここでこれほどの御業を見たのに、この後荒野に入ると、「あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか」(ガラ3章4節)とパウロの言葉通りの不信仰に戻るのはなぜでしょうか。

その原因は、彼らが神の御業を体験しても、主体を自分から神に移していないからです。自分が主人で神は助け手の人には、自分の期待通りの出来事の時は神を信じ、自分の意に添わなくなると信じられなくなります。

友よ。あなたは自分の栄光(自分が主)と、神の栄光(イエスが主)のどちらを求めていますか。また、出来事を信じるのですか、主イエスという御人格を信じるのですか。神の御業は、私たちを主イエス御自身に結び付けるための恵みであり、御業が人を救うのでなく、主御自身が救ってくださるのです。

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