10章2節
「わたしが彼らの中で行ったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを…知るためである。」
「十戒」の映画は、今でも多くの人の心に焼きついています。それは、この出来事が「現実」で「大きかった」からです。
もしも、現実に十戒の映画のような出来事に直面するならば、もっと信仰深くなり、伝道もできるのに、と考えますが果たしてそうでしょうか。見回すと、大きな体験(証し)を持つ人が、良い信仰の持ち主になるとは限りません。むしろ、その体験から抜け出せず、先に進めない人もいます。
大きな体験がなくても、小さな自分の日常を出エジプト記の記事に入れて(奴隷の姿に・頑固なパロに・紅海の現場に・マナ集めに)理解できる人が良い信仰者です。そうすると、自分の経験が、子や孫まで聖書と共に伝わっていきます。
友よ。あなたの日常生活は、聖書の中ですか、外ですか。聖書の人物に自分が入り、出来事を一緒に生きるなら。そして、自分の存在と行動を、聖書の中で語れるなら、「私が主であることを知る」信仰者です。自分に聖書を取り入れるのでなく、聖書の中に自分が入って生きることが、霊的生活です。
10章3節
へブル人の神、主はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。』
神は、エジプト王に「身を低くせよ」と迫ります。この時、モーセは「ヘブル人の神が仰せられる」と言いました。
一般的見地から見るならば、エジプトの神とヘブルの神は、明治神宮と田舎の村の神社のようです。神主や信者の数、資金など違い過ぎます。それ以上に、「支配者の神」と「奴隷の神」は決定的です。世間の目は、建物、儀式、会員数…などで価値づけをし、権力と財力のある方に頭を垂れても、奴隷の神は見向きもしません。
いつの時代も真理は少数派でした。否、真理は一人でした(ヨハ14章6節)。数や見える現象がどんなに大きくても、真理でないものは必ず消えます。エジプトの「神・神殿・教え」は、今はありません。しかし、ヘブルの神は、教え(聖書)も人々も、決して失われていません。真理は普遍です。
友よ。数・勢い・著名人・宣伝…などに惑わされず、「わたしの羊は、わたしの声を聞き分けます」(同10章27節)の関係に堅く立ってください。主の御声を聞き続けるならば、真理と偽物を見分けることができます。
10章5節
「いなごが地の面をおおい…雹の害を免れて…残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。」
8つ目の災いはいなごの大軍です。疫病も腫物も時が来れば治り、雹の被害も限定的で、小麦などは被害を免れました。しかしいなごの襲来は、その小麦も失わせます。
神の警告に悔い改めない心は、神の恵みによって残された小麦(命のパン・みことば)も、いなご(サタン)に食い尽されます。それは、みことばへの信仰が奪われることで、「世の光」なる主イエスを見失います。すると次に、「やみ」(21節)が訪れます。その敵に備え、「身を慎み、目をさましていなさい」(Ⅰペテ5章8節)と勧められています。
みことばは、読むほど霊の目を開かせ、信仰を強くします。しかし、みことばを離すと霊の目は閉じ、「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています」(同)と言ういなご(サタン)に信仰が奪われます。
友よ。あなたとサタンの間に、みことば争奪競争があります。少しの時間でも聖書を出して読み、小麦(みことば)をいなごに奪われる前に、あなたが刈り取ってください。
10章7節
家臣たちはパロに言った。「…男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが…おわかりにならないのですか。」
パロの頑固さに、それまで黙していた家臣たちが忠告しました。しかし、彼らも神を信じたからではなく、自分の利益のためです。
パロは王であり自己中心そのものですが、家臣たちとて自分が生きるために仕えています。両者の関係は、自分の利益を守り合う、自己中心防御チームと言えます。両者は、そのバランスが崩れると続かなくなります。
従って、パロの家臣たちの忠告も、王のためではなく自分のためです。ですから、家臣の忠告は、「主に仕えさえよ(災いから逃れられるから)」と同時に、「男たちだけ行かせよ(自分たちの利益を損ねない)」となります。それは、神とパロの両方のご機嫌を取りますが、結局は自分の身の安全のためです。
友よ。あなたの教会の兄弟姉妹の関係が、神と指導者(牧師・長老・古い人…)の両方のご機嫌取りになっていませんか。キリストの体は、頭なる主イエスへの忠誠による一致です。それを間違うと「教会」は「協会」になり、当座は愛し合っているようでも、やがてつぶやき責任転嫁し合うことになります。
10章8~9節
「行け。…だが、だれが行くのか。」…「若い者や年寄りも…息子や娘も、羊…牛の群れも連れて行きます。」
モーセは、雹に続きいなごの大群が襲うことをパロに予告します。王の側近たちは、たまらずパロに決断を促します(7節)。するとパロは、「だれが行くのか」と問います。
モーセは、老人や若者のみか、「ひづめ一つも残さず」(26節)と答えました。それは、自分の全てをもって礼拝します、との宣言です。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」(ロマ12章1節)。
神の子たちが同じ質問を受けたら、「私だけ」「家族も」のどちらでしょうか。さらに、羊や牛(財産)は、と問われたら「財産も捧げます」と言えるでしょうか。
友よ。神に捧げることは失うことではなく、夫婦が捧げ合い互いの共有物とするように、神と共有することです。家の玄関を捧げれば玄関まで、居間を捧げれば居間まで、寝室を捧げれば、主はそこにも入って共に居てくださいます。それは、家族も能力も財産も同じです。家族皆がそろって礼拝に行けるようになることを、主に祈り続けましょう。
10章11節
「そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。」こうして…追い出した。
「だれが行くのか」の質問に、「全員」と答えると、パロは女や子どもを人質に取るつもりで、「壮年の男だけ」と言います。
英語で、マイファミリー・イズ(単数)となるように、家族は一単位です。礼拝に家族を残して行くことは、命の一部が欠けているように思えるものです。パロが女と子供を手元に置くことで礼拝を妨害するように、サタンも家族の救いと礼拝を妨害します。それは、イスラエルの部族が、エリコの城を陥す大勝利を得たのに、次のアイとの戦いで敗北した原因が、アカン一人のためであったようにです(ヨシュア記7章)。一人の中の一つの聖別されないことが、その人の礼拝を邪魔し、家族の一人を用いて家族礼拝の邪魔をします。
「礼拝に行かねば。しかし、家族は」と悩む友よ。サタンが用いる手口は、家族の問題を見せておいて、実は、あなたの心を、神(自分)と世(家族)の両方に止めることであると見抜いてください。実際、家族のことで礼拝に出席できない時もありますが、しかし、心で信仰の宣言をしてください。「私と私の家とは主に仕える」と(同24章15節)。
10章13~14節
モーセは…エジプトの地の上に杖を差し伸ばした。…朝になると東風がいなごの大軍を運んで来た。…大群はエジプト全土を襲い、
モーセが、杖をエジプトに差し伸ばすごとに、災いは重くなります。今度の東風に乗ったいなごの襲来は、8回目の災いです。
東風は、あらゆる水分を奪います。ヨセフの時代の飢饉も、「東風に焼けた…七つの穂」(創章6節)とあり、「かみ食らういなご…群がるいなご…とびいなご…滅ぼすいなごがこれを食った」(ヨエル1章4節・口語訳)とも記されています。東風といなごの合体は、「不毛」を表し、不毛の人生とは神に手を離された状態です。
神の裁きは、神自らの手で災いを起こすのではなく、神が御手を引かざるを得なくなり、その分だけ罪と肉とサタンの制限が外れ、命が枯れて不毛と死が始まることです。
「なぜ…またこんな目に会うの・また自分を変えられなかった・また失敗した・また愛せなかった…主よ助けてください」とふさぎ込む友よ。そのような中でも、あなたが「主よ助けて」と言えることは、御霊の働きです。「御霊も…、弱い私たちを助けてくださいます」(ロマ8章26節)。あなたが自分に失望しても、神はあなたに失望してはいません。
10章17節
「どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。お前たちの神、主に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」
パロは、先にも罪を認めて許しを請いました。今回は、「死を取り除いて」と言うほど切羽詰まっています。しかし、彼の悔い改めは本物なのでしょうか。
いなごの災いが彼の心を動かしたのは、決定的な経済的ダメージを受けたからです。為政者にとって、経済が良好であれば民は満足し、権力も安泰ですが、経済崩壊は政権の命取りです。彼の懇願は、自分の地位のための命乞いに見えます。人は偶像などの観念的なもの、一時困ること、他者の痛みなどでは悔い改めることはできません。自分の命運がかかってこそ、悔い改めの戸口に立ちます。
エサウが弟に祝福を奪われ、「涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした」(ヘブ12章17節)と聖書は突き放しています。その理由は、エサウは神に「悔い改め」たのでなく、父イサクに「後悔」を告げただけだからです。パロも、モーセに懇願しているだけで、神にではありません。
友よ。あなたの祈りは、神に向かいますか、それともモーセ(人)に対する要請ですか。
10章19節
すると、主は…強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。
神は、今回も差し出した杖を降ろされました。すると、地中海から水分のある風が吹き、いなごを葦の海(紅海)に投げ込みました。
主が災いの御手を引かれたのは、パロが悔い改めたからではなく、7回を70倍(マタ18章22節)も赦すお方だからです。神の御心は、「わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。神である主の御告げ。だから、悔い改めて、生きよ」(エゼ18章32節)です。
主イエスが公生涯を踏み出された第一声も、「悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1章15節)でした。
友よ。「悔い改めよ」を、神の強制・強権と受け取らないでください。何度も逆らうパロ(あなた)を愛するから、繰り返し試練を与え、またそれを取り去ります。あなたの「いなごと東風(不毛・死)」の裁きが取り除かれたのは、主が御自分で引き受け、自ら葦の海に沈まれた十字架からです。だから主は、「私は渇く」(ヨハ19章28節)と言われ、その体から「血(赦し)と水(命)」(同34節)を注がれました。神は、東風(乾燥・死)を西風(水分・命)に変えられました。
10章22~23節
エジプト全土は三日間暗闇となった。…しかしイスラエル人の住む所には光があった。
雹やいなごによる大打撃を受けても、パロの心は変わりません。次に神は、互いを見ることもできない暗黒を送ります。しかし、イスラエル居住区には光がありました。
光と闇を分けることはできないのに、エジプトには闇、イスラエルには光がありました。それは、今までの一連の出来事が、イスラエル人には光(救い)となり、エジプト人には闇(裁き)となったからです。同じ出来事なのに、ある人には光、他の人には闇となるその分岐点は、出来事の中に「神を認めるか(信じるか)、認めないか(信じないか)」にあります。どんなに暗く、辛く、悲しく絶望に見えることも、そこに神の御臨在を感じ、神の御手が見えると光の世界に変わります。
信仰は、「光は闇の中に輝いている」という、光なるキリストを内に持つことで、「やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハ1章5節)のです。
友よ。闇(マイナス・災い・苦しみ・悲しみ)は何によっても消せませんが、唯一、光によって追い出すことができます。逆に、悲しみや苦しみの闇は、キリストが本物の光であることを証明します。
10章26節
「私たちの家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。」
闇を恐れたパロは、出国許可を与えますが家畜は残せと言います。しかしモーセは、「ひづめ一つ残さない」と宣言します。
《…証し…》未開状態だったアフリカで、一人の少女が救われた。献金は、野菜かわずかの穀物が精一杯であった。しかしこの少女は、85セント相当の硬貨を神への献げ物にした。多額過ぎることに驚いた宣教師が、「どうしてこんな財産を得たのか」と尋ねた。少女は次のように説明した。「自分の心が満足するような献げものにするために、近くの農園主のところに行き、この85セントと引き替えに、終身の奴隷となることを約束しました」と。彼女の贈りものは、彼女のこれから先の生涯における全ての力と奉仕に等しいものを足元に置いたのである(ある霊想の書より)。
友よ。私たちが持つ様々のもの(財産)は、私たちの外側にあるものでなく、内側にあるのです。自分を主に献げたことは、ひずめ一つまでも主に献げたものです。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ…霊的な礼拝です」(ロマ12章1節)
10章29節
モーセは言った。「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」
モーセとパロの面会は、これが最後になります。物事には必ず終わりがきますが、この終わり方は最悪で残念です。
神が起こす災いの順番と内容を見ると、愛の警告であると分かります。初めの4つは、エジプトの神々の空しさを暴きました。
① ナイルを血に…女神的存在の死
② 蛙の襲来…生殖の神なので除けない
③ ぶよ…神殿で奉仕ができなくなる
④ あぶ…太陽神の象徴
以上は偶像の部類でまだ観念の世界ですが、次からの経済的打撃と病気は命に迫る現実問題です。⑤ 疫病…家畜の死
⑥ 腫れもの…人と家畜が弱る
⑦ 雹…作物と家畜への被害
⑧ いなご…食糧の壊滅
⑨ 闇…暗黒の前兆、魂への恐怖
そして、⑥番目の災いからは、エジプト人だけに及びました。友よ。神は、永遠の命を受け取らせたいので警告し続けます。拒み続けることは、神との間に断絶を作り、それが人の魂の死です。モーセが「結構です」と言いましたが、それを言わせるのはパロです。「結構です(断絶)」と言うのはいつも人であって、神はあなたに絶望し、あなたを断絶することはありません。