神はモーセに仰せになった。…「イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。…そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」
出エジプト記6章2~7節神はモーセに仰せになった。…「イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。…そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。」
出エジプト記6章2~7節神の民は、ヤコブの時代にエジプトに下り、430年間過ごしました。その前期は、ヨセフのゆえに優遇され繁栄しますが、政権が代わると迫害を受ける奴隷へと一変しました。
救いの始まりは、この世と自分自身への失望です。「心の貧しい者(霊の飢餓)、悲しむ者は幸いです」が、希望がなければその先に進めません。 しかし神は、彼らが助けを求め叫んだ40年前に、すでにモーセを荒野へと導き、準備を整えておられました。
神はモーセを荒野で羊飼いとして40年間訓練し、モーセを枯れた柴にしました。 柴が燃え尽きない現象の中で、彼は神に会いました。柴が燃え尽きないのは、神の聖霊が内で燃えていたからでした。神の器は、枯れた柴(自分の命が枯れた者・肉に死んだ者)になった人で、神はその者の中で、思いのままに御自分の聖霊を燃やすことができます。神はモーセを孤独と貧しさの中で訓練し、御自分に依存できる者へと造り変えられました。
全てのものを失望させる根源は、パロでも奴隷でもなく「罪」です。モーセが戦った相手は、「自分の罪」と「イスラエル人とエジプト人の罪」でした。罪から勝利できる者は自分が枯れ、聖霊が内に燃える人です。
モーセがエジプトに遣わされてから後、パロとの霊の戦いは果てませんでした。パロの妥協案を拒み続けるモーセ。その分、民の悲痛な叫びは高まっていきました。
人が罪を認め、助けを求め、救いへの道がそろうと、次の戦いは「拒絶と分離」です。民は自分の救いを求め、モーセとパロの間を行き交い、その狭間で苦しみます。しかし、「だれも、二人の主人…神にも仕え、また富にも仕える…ことはできません」。(マタ6章24節)「不信者と、つり合わぬくびき、…正義と不法…、光と暗やみ。キリストとべリアル、…信者と不信者、…神の宮と偶像…」(Ⅱコリ6章14・16節)に共に仕えることもできません。
その霊の戦いの後半で、エジプトは雹に打たれ、暗闇に打ちのめされますが、イスラエル人の地は無害であった差別の中に、神への信頼が強められていきました。
霊の戦いにおける初めはナイル川・蛙・カブト虫などのエジプトの神々でした。次は、作物や家畜などの経済面。そして、命に直接係わる過ぎ越しの祭りへ移りました。
人は自分を大きくして救おうとしますが、聖書は人を小さくして救おうとします。「私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました(罪の告白)。 私はキリストとともに十字架につけられました(罪人の自分が死ぬ)。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(復活・神の子)」(ガラ2章19・20節)。
過ぎ越しの祭りは、「主の十字架と復活」、紅海を渡ることは、「信仰告白のバプテスマの出来事」でした。パウロは「…最もたいせつなことは、…キリストは…私たちの罪のために死なれたこと、…三日目によみがえられたこと」(Ⅰコリ15章3・4節)です。と言いました。
イスラエルは、二つに分かれた紅海を渡り、先祖の地カナンに向けて出発しました。ついに、エジプトからの脱出です。
民が踏み入れた荒野の生活は、キリストの体である教会生活でもあります。そこでの最初の試練は、水とパンの不足でした。民はモーセに反発し、エジプトの食物を慕います。彼らは、命が変わると、その食糧も違うことに納得できていません。
エジプト(この世)には肉を養う食物があり、荒野(教会)には霊の糧があります。「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるもの」で、主イエスこそ「いのちのパン」(ヨハ6章)であり、「神の口から出る一つ一つのことば」(マタ4章4節)も霊の食物です。
水は「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」(ヨハ4章14節)、と言われる聖霊です。神の民が飲む水は、打たれた岩(主の十字架)から出てきました(17章6節)。
民は、シナイ砂漠を南下し、シナイ山の麓へ来ました。そこは、かつてモーセが神と出会い、「あなたがたはこの山で神に仕える」と言われた礼拝の場でした。
神は、モーセを通し民に戒めを与えられました。それは、エデンの園に置かれた「善悪を知る木」の再確認でした。人の生きる基準は、まことの神を愛し(一戒~四戒)自分を愛するように「隣人を愛する(五戒~十戒)にありました。戒めは、これを守ることにより神の子になるのでなく、「エジプトの国、奴隷の家から連れ出」された(20章2節)神の子の恵みに留めるためでした。さらに、神の子として生きる目標と基準、「あなたがたのうちにキリストが形造られる」(ガラ4章19節)ように「御霊によって歩」ませる(同5章16節)」ためです。
神が与えた十戒も、主の祈りも、山上の垂訓(マタイ5~7章)も、神の子の命が守られ、成長し完成されるための同じ真理です。真理が「あなた方を自由にする」という自由は、神の子の命をもって、神の命で生きる者に与えられます。
モーセはシナイ山で、戒めとともに、幕屋と諸々の祭りについての規定も受け取りました。これ以後、出エジプト、レビ記、民数記、申命記に至る神の言葉は、神と交わる(礼拝)ために必要なことを教えました。
「その所でわたしはイスラエル人に会う」という幕屋は、聖所と至聖所、そこに配置される一つ一つの器具に至るまで、神の存在と神と人の関係を表しました。
神と交わるためには、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(Ⅰペテ1章16節)が何よりも必要です。そのための贖いの小羊こそ、神が人となられたイエスでした。彼の十字架の血が、神が求める聖を作り出します。さらに、幕屋は、神の声を「聞き」、聞いた物を「ささげ」、捧げたもので寸法どおりに「行う(造る)」必要がありました。
エジプトから脱出し、荒野での生活、戒め、幕屋、祭り…これらを記した「出エジプト記」は、歴史書でも宗教書でもありません。これは、人が歩まねばならない人生そのものです。
人生の目的は、「何人の自伝にも、神登場の一文字が入らねば、その人生は空しい」とあるように、まことの神を礼拝することです。人生に神が登場し、神の子となることは、主の十字架と復活の恵みの御業です。しかし、神の子となっても、神の子として生きることはその先にあります。それには、肉によらず霊によって生きるために、「日々、自分の十字架を負って我に従え」と主が言われます。
だれが神の栄光を見るのでしょうか。勿論、神の子です。しかし、もっと、もっと栄光を見るのはキリストの花嫁です。花嫁とは夫に体も心も魂も捧げた人です。その者は、夫・キリストの恵み・平安・喜びを受け、それと共に苦しみや悲しみも共有します。 恵みには、喜びだけでなく、苦しみと悲しみも入っています。
多くのクリスチャン達が、神の御臨在する幕屋にキリストの花嫁として住み、日々神の栄光を見続けるものとなれますように…。
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